ニコロ・ポーロは、イタリアの商人で探検家。
「東方見聞録」で有名なヴェネツィアの探検家マルコ・ポーロの父親です。
ニコロ・ポーロの弟がマテオ・ポーロ。
ニコロ・ポーロの家は代々続く商人の家系です。
ニコロは弟のマテオとともにコンスタンチノープルで商売を行い成功しました。その後、彼らは元に渡り、モンゴル皇帝のフビライ・ハーンからローマ教皇への手紙をもって一時帰国しました。
息子のマルコとともに再び旅立ちました。その旅の様子は「東方見聞録(イル・ミリオーネ)」に書かれています。
ニコロ・ポーロとはどのような人物なのか紹介します。
ニコロ・ポーロ
名前:ニッコロ・ポーロ(Niccolò Polo)
地位:
生年:不明
没年:不明
子:マルコ
ポーロ家は代々続く商人の家系。
ニコロ・ポーロの生年・誕生地は不明。
ニコロも中東貿易を行っていました。
コンスタンティノープルからモンゴル帝国へ
ニコロと弟のマテオはマルコが生まれる前にヴェネツィアを離れ、コンスタンティノープルに向かい、そこで数年間滞在しました。
マルコが生まれた年は不明ですが1254年とされる事が多いです。
ニッコロとマテオはコンスタンティノープルのヴェネツィア人居住区で暮らしながら商売を行いました。当時、コンスタンティノープルは西ヨーロッパ諸国とヴェネツィアが占領。していましたが東ローマ帝国残党は奪回を目指していました。
ニッコロとマテオは1259年か1260年に財産を宝石に変えてコンスタンティノープルを離れました。
1261年。東ローマ帝国の残党が作ったニカイア帝国によってコンスタンティノープルは奪還され、東ローマ帝国が再興。ヴェネツィア人居住区は焼き払れヴェネツィア人は捕虜になったのでニッコロ達の判断は正しかったのです。
1260年。ニコロとマテオは毛皮貿易で栄えていたクリミアの都市ソルデイアにビジネスの拠点を移しました。
クリミアはベネチアの商人が頻繁に訪れる土地でしたが、ポーロ兄弟が到達したころはモンゴルのジョチウルス(キプチャク・ハン国)の一部になっていました。
ニコロ達は西のコンスタンチノープルには戻れないと考え東に向かいサライ(首都)に滞在。ジョチウルスの支配者ベルケ・ハンとも商売しました。
その後、ジョチウルスでも戦乱がおきたのでクリミアを離れブハラ(ウズベキスタン)に移住。
モンゴル帝国の都・大都に向かう
そこでフレグウルス(イル・ハン国)の使者と会いました。二人はフレグウルスの使節団とともに東に向かい1266年。モンゴル帝国の首都・大都(北京)に到着。クビライ・ハーンのに謁見したといいます。
この間にニコロの妻が死亡。息子のマルコは親戚の叔父と伯母に育てられました。
ニコロとマテオはクビライ・ハーンからローマ教皇への手紙を渡され、キリスト教と西洋の文化を伝えるための100人の教養人の派遣、キリストの墓にあるという油を送ることを要請されました。「東方見聞録」ではキリスト教徒的な解釈で書いていますが、モンゴル帝国の性質から考えるとクビライが要請したのは朝貢使節団の派遣要請だった可能性があります。
クビライの母のソルコクタニ・ベキの出身部族ケレイト族には景教(キリスト教ネストリウス派)が伝わっていて、ソルコクタニ・ベキもキリスト教徒だったといわれます。クビライ本人はキリスト教徒ではありませんが、興味を持っていた可能性はあります。クビライの宮廷には様々な民族がいてたのでヨーロッパの文化に興味を持っていたのは間違いありません。
ニコロは黄金のパイザを与えられました。パイザはモンゴル帝国の領内で通交と商売ができるという許可証です。
1269年。ニコロ兄弟はバチカンに到着。当時のバチカンでは1268年に教皇クレメンス 4 世が死亡して後継者が決まっていませんでした。ヴェネツィアに戻って新しい教皇が決まるのを待つことにしました。
1269年か1270年。ニコロとマテオはヴェネツィアに戻りました。このとき初めてマルコと会いました。
二度目の旅
1271年。ニコロ兄弟は新教皇がなかなか決まらないのでクビライへの説明のため。再び元に行くことにしました。このとき17歳になっていたマルコも一緒に旅をしました。
その途中で教皇グレゴリウス 10 世が就任したのを知ったのでバチカンに向かいました。バチカンはドミニコ会修道士のニッコロ・ダ・ヴィチェンツァとグリエルモ・ディ・トリポリの派遣を決定。
ニコロ兄弟は教皇グレゴリウス10世からクビライに向けた手紙を預かり、息子のマルコ、2人の修道士とともにモンゴルに向かいました。
この旅が後に『東方見聞録』に記録されるアジアへの旅です。
しかし2人の修道士はモンゴル帝国に行くのを怖がり途中で離脱。ニコロ兄弟とマルコは旅を続けました。
1274年。ニコロたちは元の首都・大都に到着。教皇からの贈り物をクビライに届けました。
クビライは話が上手だったマルコを気に入って元の役人に採用しました。ニコロ達はクビライが派遣する外交使節に同行、インドや東南アジアを訪問しました。マルコは訪問先で見聞きしたことをクビライに報告、クビライを楽しませました。彼らは17年近くを元で暮らしました。
その間、ニコロ達は何度もクビライに帰国を願い出ていたがクビライは許可しませんでした。
1291年。クビライは遂に帰国を許可。クビライはフレグウルス(イルハン国)のアルグン・ハーンに嫁ぐ皇女コケジンへの随行を命じられました。これが最後の任務になりました。
ニコロ達を乗せた船団は海路で移動。南方の都市泉州の港を出発してスマトラ島に向かい、スリランカ、インド(マイラポール、マドゥライ、アラプーザを経て)を経てペルシャに向かいました。
1293年か1294年。ニコロ達はイルハン国に到達。そのときにはすでにアルグンが死亡。後継者のゲイハトゥが即位していました。
ニコロ達はコケジン皇女を送り届けると、イルハン国をあとにしてトレビゾンドに向かいトレビゾンドからヴェネツィアに向かいました。
1295年。ニコロたちはヴェネツィアに戻り、商人としての活動を再開。
その後、ニコロとマテオがいつ亡くなったのかはわかりません。
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