ナスフ・パシャは16世紀末から17世紀のオスマン帝国の政治家です。
14代皇帝 アフメト1世の時代に大宰相になりました。
イランとの戦争を和平に導きナスフ・パシャ条約を結びましたが。それはオスマン帝国は初めて領土が減るのを認めた条約でした。
ナスフ・パシャは協調性がなく他の高官やイスラム長老と対立。アフメト1世にも反抗的でした。
最終的にナスフ・パシャは処刑されました。
ナスフ・パシャとはどのような人物だったのかご紹介します。
ナスフ・パシャの史実
名前:Nasuh Pasha(ナスフ・パシャ)
国:オスマン帝国
地位:大宰相
生年:不明
没年:1614年
父:不明
母:不明
妻:アイシェ・スルタン
子:なし
生年は不明。
出身地はアルバニアという説とコモティニという説があります。
デヴシルメで徴用されイスタンブールにやってきました。軍の施設で訓練を受けたあと。様々な役目を与えられ各地で働きました。
1603年。アレッポの知事に任命されました。クーガルザデ・スィナン・パシャは、彼をアレッポの知事から解任されました。ナスフ・パシャはこれに異議を唱えましたが、その異議は受け入れられませんでした。
彼は宰相の地位を与えられ、「タヴィル・アフメト」というジェラーリ反乱軍の鎮圧任務が与えられました。しかしジェラーリと戦って敗北し、退却してしまいました。
1606年。和平条約を破ってバグダッドを占領した「タヴィル・アフメット子メフメット」に対し、バグダッド奪還のために派遣されました。しかしこの遠征も失敗。ディヤルバクルに退却しました。
ナスフ・パシャはディヤルバクルの知事に任命された。その間に彼はビットリスの裁判官シェレファンの娘と結婚し、義父を通じてかなりの財産を手に入れた。彼はここで、5000頭の馬を擁する優れた騎兵隊を地方のスィパーヒー部隊として設立、訓練しました。
ナスフ・パシャはディヤルバクルの知事の時、大宰相クユジュ・ムラト・パシャがイラン遠征軍の総司令官になりました。ナスフ・パシャは皇帝アフメト1世に手紙を書き「もしクユジュ・ムラト・パシャが解任され代わりに彼自身が大宰相に任命されたら自分が国庫に40,000金貨を納め、またイラン遠征軍のすべての物資や食糧を自分の財布から供給する」と約束しました。皇帝はナスフ・パシャを呼び出して誰が手紙を書いたのか問い詰めました。ナスフ・パシャは手紙を自分が書いたと白状しました。
という逸話がありますが、当時の記録にはそのような内容は確認されていません。
大宰相の周りの人々はナスフ・パシャが処刑されると思いましたが、クユジュ・ムラト・パシャは彼が国家に必要な人物であることを訴え彼の処刑を防ぎました。
その直後。大宰相クユク・ムラト・パシャは、反乱を起こしたアレッポの前総督カンプラトオルを撃退するため、ナスハ・パシャに地方騎兵隊の使用を要請しました。しかしナスハ・パシャは大宰相の要請を拒否。そこでクユク・ムラト・パシャは、皇帝にナスハ・パシャの処刑を許可するよう要請しました。
でもアフメット1世は大宰相の要求を拒否。ナスハ・パシャを処刑してはいけないと命令しました。
1611年3月。ナスハ・パシャはにエジプト州知事に任命されました。
東方遠征中のクユク・ムラト・パシャの後任としてイスタンブールに呼び出されました。
イスタンブールに戻る途中。現在のナルハン地区がある場所に滞在。ナスハ・パシャは谷間にブドウ畑や庭園、森が広がるこの場所を気に入り、40室の宿屋、浴場、モスクを建てました。その日以来、ナルハン地区は発展してきました。
大宰相になる
1611年8月15日、クユジュ・ムラト・パシャがディヤルバクルで病死。ナスフ・パシャが新しい大宰相に任命されました。
ナスフ・パシャ条約でイランと和睦
ナスフ・パシャはサファビー朝イランと和平条約を結びイランとの戦いを終わらせました。この条約でオスマン帝国はムラト3世時代に獲得した領土を失い。スレイマン1世時代に戻りました。イランは毎年絹200loads(59000kg)をオスマン帝国に払う。
これはオスマン帝国が領土を失ったことを認めた最初の条約になりました。
このときの条約を「ナスフ・パシャ条約」と呼びます。
ナスフ・パシャは、ナスフ条約と呼ばれる条約によってイランと和平を成立させました。
しかし後にサファビー朝のシャー・アッバスは絹の支払いを拒否して再び戦争が始まります。
ナスフ・パシャの最期
ナスフ・パシャは短気で攻撃的な性格のため、彼の政府高官やイスラム長老ホジャザーデ・メフメト・エフェンディとの関係は悪化しました。自分に敵対的な人物を左遷して自分の仲間を要職につけました。
一方、アフメト1世が政治に関わろうとするのを嫌がったので。皇帝との仲も悪くなります。
ナイマの歴史によると、ナスフ・パシャはアフメト1世に「私を信頼して私のアドバイスに従うか、そうでないなら私を解雇して大宰相の印を別の誰かに渡してください。でももしなれば、私は自分で毒を飲むでしょう」と言いました。
アフメト1世は脅しのようなナスフ・パシャの発言が不愉快でした。さらに彼の言葉から、クユジュ・ムラト・パシャの毒殺に関係しているのではないかと疑いました。
ナスフ・パシャは都合の悪い出来事を報告しませんでした。
例えば、1614年にコサック軍がシノプを襲撃。多くの人々を殺害、多くの捕虜を奪いました。シノプの人々は中央政府に苦情書を送り支援を要請しました。
アフメト1世はこの出来事についてナスフ・パシャに尋ねまいたが。彼は大したことがなかったかのように言いました。でもナスフ・パシャと対立していたシェイフ・ウル・イスラム・ホジャザーデ・メフメト・エフェンディが事実を報告スルタンに報告。
さらに1614年。ナスフ・パシャは賄賂で訴えられました。
アフメト1世はナスフ・パシャの解任と処刑を決定しました。
1614年10月17日。イスタンブールは緊張した一日を過ごしました。アフメト1世は金曜日の祈りに出席せず、宮殿周辺には警備兵を配置。イェニチェリの全兵士が宮殿の外壁の外に並び宮殿を守りました。
警備隊長オフリリ・フセイン・アガと約100人の武装した警備兵が大宰相の住居に送られました。ナスフ・パシャはしばらく抵抗しましたが。最終的にナスフ・パシャは警備兵に絞め殺され処刑されました。
ドラマ
新オスマン帝国外伝・影の女帝キョセム 2015年、トルコ 演:トルガ・トゥンセル
サフィエ・スルタンの部下。サフィエ・スルタンの命令でアナスタシアを誘拐。後に大宰相になります。アイシェ・スルタンと結婚。賄賂を受け取ったために処刑されました。
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