ミマール・シナンはオスマン帝国の建築家。
スレイマン1世・セリム2世・ムラド3世の時代に活躍しました。
現在、私達がトルコでみる多くのモスクや歴史的な建物はミマール・シナンが造った物が数多くあります。
ミマールシナンは生涯の間に370以上の建物の建設印関わったといわれます。
オスマン帝国最高の建築家ミマール・シナンについて紹介します。
ミマール・シナンの史実
名前:シナン(Sinan)、ジョセフ(Joseph)
通称:ミマール・シナン(Mimar Sinan)、シナン・アガ(Sinan Agha)
地位:オスマン帝国建築家
生年:1488~1490年の間
没年:1588年
享年:97~100。
父:アブドゥルメンナン
母:不明
子供の頃の名前はジョセフ(Joseph)
イスラム教改宗後はスィナン(Sinan)
ミマール(Mimar)は建築家の意味。
ミマール・シナンといえば「建築家シナン」の意味。
また名前のあとにアガ(Agha)を付けることもあります。アガは「マスター、ミスター」といった意味。もともとは「兄・兄弟」を意味する言葉。モンゴル語の「aka」と同じ意味。社会的地位のある男性に対する敬称として使います。
シナン・アガといえば「ミスター・シナン」という意味。
おいたち
ミマール・シナンの出身地はアナトリア半島のカイセリ(トルコのカイセリ県、カッパドキアのある地域)。
アルメニア人かギリシア人。キリスト教徒(正教)です。イスラム名「シナン」もこのとき与えられました。
石職人の家に生まれました。父の仕事を手伝い建築に必要な技術を身につけました。
1512年。デヴシルメ(徴用)でイスタンブルに来ました。イスラム教に回収します。
訓練の後、イエニチェリ(歩兵)の将校として配属されます。
工兵時代
スレイマン即位後の戦争に参加。ベオグラード戦、モハーチの戦いに参戦しました。戦いで功績をあげて歩兵部隊の指揮官になりました。弓矢も得意でした。
大師匠イブラヒムに仕えたこともあります。建築学と数学を学び、建築家を目指しました。
1535年。サファビー朝との戦いでは、バグダットの戦いに参戦。
1537年。コルフ(ギリシャ西部)、プーリア(イタリア南部)、モルダビア(ルーマニア、モルドバ、ウクライナの接する地域)の戦いにも参戦しました。
工兵部隊の主任になりました。
占領地の建築物の解体、改修を行い、橋を作りました。防衛用の施設を作ったり。キリスト教の協会をモスクに改築も行いました。
建築主任時代
1539年。リュトフィー・パシャが大宰相になると、かつて部下だったシナンを役所の長官にしました。シナンはオスマン帝国内の住宅、インフラ設備(道路・橋・水道)の建設の責任者になりました。
オスマン帝国の建築家の最高の地位についたのです。
シナンは理論よりも経験を大切にする建築家でした。最初は伝統的な建築工法を守っていたシナンですが、工兵時代の経験をもとに新しい建築方法を目指すようになりました。やがて独創的なイスラム建築を完成させます。
シナンは自伝の中で建築家としての人生を3つに分けて説明しています。
見習い時代、職人の時代、親方の時代です。
シェフザーデ・モスクが完成するまでが見習い時代。
スレイマニエ・ジャーミイが完成するまでが職人の時代。
セミリエ・ジャーミィが完成するまでが親方とよんでいます。
工兵時代から1543年ジェフザーデ・ジャーミイ完成まで。
(ジャーミイ=トルコ語で礼拝施設・いわゆるモスク)
1530年代。ヒュスレヴ・パシャのためのヒュスレヴ・パシャ・ジャーミイ(フスルウィーヤ・モスク)を建設。シナンにとって初の礼拝施設建設でした。
その後、ヒュッレムのための住宅を建設。ただし設計は先人が行ったのでシナンのアイデアはあまり入っていません。
ハイレッデン提督の墓標の建設しました。
ミフリマーフの依頼でミフリマーフ・スルタン・ジャーミイ(ウスキュダル)を造りました。礼拝施設だけでなく学校や食堂も併設された複合施設でした。この施設に満足したミフリマーフとリュステムは他のモスクも似たような形式で建てるように依頼しました。
スレイマン1世は若くして死去した息子・メフメト皇子のために礼拝施設を建てることにしました。この施設もシナンに依頼しました。
それまでもものよりも大きなドームを持つ礼拝施設を造りました。
1543年シェフザーデ・ジャーミイが完成しました。シナン初期の名作といわれます。
その後、スレイマンは自分のためのモスクを作ろうと考えシナンに依頼します。
1550年スレイマンの命令で建築開始。7年の歳月をかけて1557年にスレイマニエ・ジャーミイが完成しました。
その間も弟子たちとともに様々な建物の建設に関わります。
1568年。セリム2世の命令でセミリエ・ジャーミイの建設をはじめました。
1674年完成。
イスラム建築の最高傑作といわれます。
東ローマ帝国時代に造られたアヤソフィアを越えようという野心をもって作られました。その大きさはアヤソフィア以上。トルコ最大級のモスクです。
シナンは火災に強い街設計も考えました。狭い通りは火事になったとき燃え移りやすいです。そのため古い建物を取り壊し、十分な幅をもった道路を造り建物や下水道を配置しました。そのための法律も造りました。この時代に災害まで考えて街設計したのは興味深いです。
自分が設計した霊廟
ミマールは1588年に死亡。97~100歳という当時としても高齢でした。
彼は自分が設計した霊廟に葬られました。
彼の死後も弟子たちが設計思想を引き継ぎました。
インド・ムガール帝国のタージマハルの建設もミマールの弟子が関わっていました。
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