ミフリーマフ・スルタンはオスマン帝国の皇女。
父スレイマン1世はオスマン帝国第10代皇帝。領土を拡張しオスマン帝国の全盛期を築いた皇帝です。
母ヒュッレムはオスマン帝国史上最も発言力のあった妃といわれます。
ミフリマーフはヒュッレムの影にかくれてあまり有名ではありません。しかし莫大な財産を持ち、オスマン帝国の王室にたいしても影響力のあった女性でした。
オスマン帝国史上最も力の強い皇女といわれます。
トルコの文学では父・スレイマンのエジプト遠征に付き従ってバタールという馬に乗って戦う。という物語もあります。もちろん事実ではありませんが。そのくらい人々には兄弟よりも勇敢な女性とイメージされていたようです。
ヒュッレムの娘というだけでなく後の世に強いインパクトを残した女性でした。
ミフリマーフ皇女について紹介します。
ミフリマーフの史実
名前:ミフリマーフ(Mihrimah)
地位:オスマン帝国皇女
生年:1522年
没年:1578年
父:スレイマン1世(SüleymanⅠ)
母:ヒュレッム(Hurrult)
夫:リュステム・パシャ(RüstemPasha)
子供:アイシェ・ヒューマシャ(Ayşe Hümaşah)
1522年。皇帝スレイマン1世と愛妾ヒュッレムとの間に生まれました。
名前のミフリマーフ(Mihrimah)はペルシャ語で「太陽と月」を意味します。愛情、慈悲という意味もあります。
ヨーロッパではアラビア語で「月の」という意味を持つカメリア(Cameria)と呼ばれていました。本名と同じようにヨーロッパでも「月の姫」として知られていたようです。
ヒュレッムにとってはメフメトに次ぐ二人目の子供でした。
ミフリマーフは教養が高く、律儀な性格だったといいいます。また、洗練され、雄弁で読書家だったといいます。
1533~34年ごろ。母ヒュッレムが正式にスレイマン1世と結婚。正妻になりました。
美人の異母姉妹に嫉妬?
スレイマン1世にはもうひとりマヒデヴランとの間に生まれたラズィーエという娘がいました。ラズィーエは母マヒデヴランに似てミフリマーフよりも美人だったと言われます。
ミフリマーフはとくに美人ではなかったようです。彼女はラズィーエの美しさに嫉妬して彼女をあまり好きではなかったようです。
でも父スレイマンが溺愛したのはミフリマーフの方でした。母ヒュッレムがスレイマンの寵愛を受けていたのもありますし、口が達者で機転が効くミフリマーフは父の心を掴むのが上手かったのかもしれません。
気の毒に思った母后ハフサ・スルタンはラズィーエをかわいがったといいます。ハフサの死後、ムスタファ皇子がマニサに赴任するとマヒデヴランとラズィーエもムスタファの赴任先に付いていきました。
父のそばにいるミフリマーフは事実上の一人娘としてスレイマン1世から可愛がられました。
トルコドラマ「オスマン帝国外伝」ではマヒデヴランの娘としてはラズィーエは登場せず、ナーゼニンの娘の設定になってました。シャー皇女の娘エスメハンがラズィーエのポジションとして描かれています。史実ではエスメハンはメフメト皇子の妻になりました。
リュステムと歳の差結婚
1539年。17歳のとき。イスタンブルでリュステム・パシャと結婚しました。
リュステム・パシャはクロアチア出身。デヴシルメ(徴用)でイスタンブールにつれてこられたヨーロッパ人です。
リュステムはディヤルバクルの知事を務めたあと、宰相になっていました。ヒュッレムの娘と結婚したリュステム・パシャは、大きな後ろ盾をえました。リュステム・パシャは結婚の5年後、大宰相になります。
母ヒュッレムは最初、ミフリマーフを美男子のカイロ総督と結婚させようとしたともいわれます。でも父スレイマン1世の決断でリュステムとの結婚が決まりました。
リュステムの政敵が流した情報によると、リュステムはハンセン病にかかっているとされました。でも医師が派遣されハンセン病にはかかっていないとわかりました。
リュステムは39歳。歳の差は22歳です。
親子ほどの年の差がありました。結婚式はエスキサライ(旧宮殿)で行われました。同じ日にバヤジトとジハンギルの割礼式も行われました。
お祝いの行事は15日間続きました。
母ヒュッレムとともに暗躍?
ミフリマーフは大きな財産を持っていました。夫のリュステムは大宰相として大きな力を持ち、莫大な富を蓄えていました。
しかしリュステムの生活は豪華というわけでなく。控えめな生活スタイルはスレイマン1世からも高く評価されていました。
リュステムはあまり政治的な地位は高くなかったのですが、ヒュッレムやミフリマーフがスレイマンに働きかけたおかげでリュステムの政治家としての地位も上がりました。
リュステムは道路を整備して自分の土地に学校、病院、公衆浴場をたてるなど、慈善事業に熱心でした。その影響からかミフリマーフもいくつかの慈善事業をおこなっています。
ミフリマーフは1540~1548年の間にモスク、学校、病院のある複合施設を作りました。建設を行ったのはオスマン帝国最高の建築家・ミマール・スィナンです。
1553年。ムスタファ皇子が謀反の疑いで処刑されました。
ムスタファの死にミフリマーフが直接関わったという証拠は見つかっていません。でもオスマン帝国や周辺国の記録では。兄弟のバヤジトを後継者にするために、母ヒュッレムとともにミフリマーフも暗躍したと噂されていました。
スレイマン1世にムスタファ謀反の報告をしたのはミフリマーフの夫で大宰相のリュステムでした。ムスタファが謀反を起こした証拠はありませんが。当時の慣例では皇子の誰かが皇帝になると他の兄弟は処刑されると考えられていました。弟を守るため母や夫とともにムスタファを排除しようとしたと考えられます。
1554年。ミフリマーフは流産しました。命に関わるほど危なかったと言いますが。なんとか回復しました。
1555年。カラ・アフメト・パシャが処刑され。リュステムが大宰相に復帰しました。このときもヒュッレムとミフリマーフの働きかけがあったと言います。
1558年3月。メッカの宗教家シェイク・クトゥブ・アル・ディン・アル・ナーラワーリーがイスタンブールを訪れました。4月にはミフリマーフに会いました。皇帝の主治医シェイク・バドルアル・ディン・アル・ケイスニの提案でナーラワーリーはミフリマーフに贈り物をしました。 6月にはイスタンブールを出てカイロへ向かいましたが、その直前にもミフリマーフに会っています。
1558年。母ヒュッレムが死亡。
母ヒュッレムの死後、ミフリマーフは父スレイマン1世の相談役になりました。
1561年。夫のリュステムが死亡。
その後、セミズ・アリ・パシャとの結婚話が持ち上がりましたが。セミズ・アリ・パシャは断りました。(贅沢な暮らしに慣れている皇女と結婚することは大変な浪費を覚悟しないといけません)
その後ミフリマーフは独身を貫き、宮殿のハレムで暮らしました。
1664年。スレイマン1世はマルタ遠征をしたいと考えていましたが、マルタ島攻略には船の建造が必要でした。そこでミフリマーフは大宰相セミズ・アリ・パシャの協力を得て400隻分の建造費用を調達すると約束。マルタ遠征を実現するように説得したといわれます。
父スレイマンが遠征で宮殿を離れているときは父に手紙を送り様々な情報を伝えていました。
母后になってハレムの権力を握る
1566年。父スレイマン1世の死後、弟のセリム2世が皇帝になりました。
セリム2世は大宰相ソコルル・メフメト・パシャから兵士たちに金銭を配るように言われました。新皇帝が即位するとお祝いとしてお金を配るのが習慣になっていたからです。でもセリムには蓄えがありません。バヤジトとの後継者争いで味方を増やすために使い込んでいたからです。
そこでセリムは姉のミフリマーフに援助を求めました。ミフリマーフはセリムに資金援助をしました。
ミフリマーフはスレイマンの死後、旧宮殿に引きこもりました。でもセリム2世はミフリマーフを旧宮殿に迎えに行きました。
母ヒュレッムは既に他界していたのでミフリマーフに母后の役目を求めました。
ミフリマーフはセリム2世の母ではないので正式に母后は名乗ってません。でもミフリマーフはハレムでトップの地位にたったのです。ミフリマーフはセリム2世の時代も大きな影響力をもつことになりました。
ハレムではセリム2世の妃・ヌールバーヌととの確執もあったようですが。大宰相のソコル・メフメト・パシャを味方にしていたこともあり、ハレムでは大きな影響力を持ちました。
1574年。セリム2世が死去。
セリム2世の息子ムラト3世があとを継ぎました。
ムラト3世の母ヌールバーヌが母后(Valide Sultan)になりました。そのためミフリマーフの影響力は衰えたといわれることもあります。
しかし実際にはムラト3世の時代もヌールバーヌ以上の地位をもつ唯一の王族として影響力をもっていました。
1578年。ミフリマーフは死去しました。享年56歳。
スレイマニエ・モスクの父スレイマンの横に埋葬されました。
スレイマンの子供の中でスレイマニエ・モスクに埋葬された唯一の人物です。
ドラマのミフリマーフ
オスマン帝国外伝 シーズン1 演:Ayda Acar(子役)
オスマン帝国外伝 シーズン2 演:Ayda Acar、Melis Mutluç(子役)
オスマン帝国外伝 シーズン3 演:Melis Mutluç(子役)、Pelin Karahan
オスマン帝国外伝 シーズン4 演:ペリン・カラハン(Pelin Karahan)
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