メレクシマ・ハトゥン( Meleksima Hatun)は17世紀のオスマン帝国の女性。
メイリシャー・ハトゥン(Meylişah Hatun)ともいいます。
第16皇帝 オスマン2世の妃。
オメル皇子の母です。
しかしオメル皇子は生まれてまもなく死亡。怒ったオスマン2世は皇子の死を母のメレクシマの性にして宮殿から追放しました。
歴史上はメイリシャーの方が有名です。
トルコドラマ「新オスマン帝国外伝・影の女帝シーズン1」ではメレクシマの名前で登場。この記事でもメレクシマで紹介します。
メレクシマ・ハトゥンとは
名前:メイリシャー・ハトゥン(Meylişah Hatun)、メレクシマ・ハトゥン( Meleksima Hatun)
父:不明
母:不明
出身地:ロシア?
生年:不明
没年:不明
夫:オスマン2世
小人:オメル皇子(Şehzade Ömer)
出身地はロシアといわれます。
メレクシマ・ハトゥンの詳しい素性は不明。
一説によると、ハレムに来る前は大宰相クユク・ムラト・パシャの奴隷だったといいます。ムラトの死後、オスマンの側女になったといいますが。クユク・ムラト・パシャが死亡したのが1611年。オスマン2世のハレムでオメルを出産したのが1621年。かなり間があいているので本当かどうかはわかりません。
1618年。オスマン2世が皇帝に即位。
1621年10月20日 。トプカプ宮殿でオメル皇子を出産。
このときオスマン2世はポーランド遠征の最中。遠征から戻る途中で皇子の誕生の報告を聞きました。
遠征から戻る途中のオスマン2世はエディルネ宮殿に立ち寄り。メレクシマ・ハトゥンとオメル皇子を呼び寄せました。皇子の誕生にオスマン2世は喜び、戦勝記念と皇子の誕生を祝って3日間の祝賀会を開くように命じました。
オメル皇子の死
1622年2月5日。ポーランド戦の勝利を祝う祝賀会が開かれました。実際にはポーランドとの戦争では戦果を得ることは出来ず、遠征は失敗。形だけの祝賀会でした。
メレクシマ・ハトゥンは息子のオメル皇子と一緒に祝賀会に出席しました。
ところがこの祝賀会で悲劇が起きてしまいます。
祝賀会ではポーランド戦の戦闘場面の一場面が再現されました。その最中に突然、オメル皇子が死亡してしまいました。詳しい原因は不明です。
銃が暴発して弾が当たったとも、大砲の轟音に驚いてショック死したともいわれます。その後、皇子は殺されたという噂も流れました。
一人息子(当時)を失ったオスマン2世は大変悲しみ、3日間は何も食べられず落ち込みました。
一説には。その後、オスマン2世は怒りをメレクシマ・ハトゥンに向け。オメル皇子が亡くなったのはメレクシマのせいにしました。オスマン2世は二度とメレクシマに会いたくないと、メレクシマの称号を剥奪。ハレムから追い出しまたともいます。
別の説では、メレクシマはエスキサライ(旧宮殿)で余生を過ごしたという説もあります。
でもオスマン帝国の記録には載っていません。ハレムにはいなかったようです。
オメル皇子やオスマン2世の死後、メレクシマがどうなったのかは謎です。
TVドラマのメレクシマ
新オスマン帝国外伝・影の女帝キョセム・シーズン1
2015年、トルコ 演:ベスト・ケクデミル(Beste Kökdemir)
役名は最初はアンゲラ。
ロシア出身。イスタンブールの奴隷市場で売られていました。お忍びで着ていたオスマン皇子が虐待されるアンゲラを見て身請け。トプカプ宮殿に連れて帰りました。その後「メレクシマ」の名前を与えられます。
アンゲラもメレクシマもどちらも天使にちなんだ名前。
劇中ではオスマンの異母弟メフメトがメレクシマに好意を寄せますが、キョセムはメフメトの気持ちは知りません。
キョセムはメレクシマをオスマンの側女と認めます。
オスマンの即位後。皇子オメルが誕生。メレクシマは皇帝妃となります。
史実ではオスマン2世にはアイシェという皇帝妃がいるのですが。ドラマではアイシェがいないのでメレクシマがオスマン2世の最初の皇帝妃になっています。
コメント