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キョセムの息子メフメト皇子はオスマン2世の命令で処刑された

オスマン帝国国旗

メフメト皇子はオスマン帝国第14代皇帝アフメト1世の息子。

母はキョセム・スルタン。

キョセムにとっては長男になります。

異母兄にオスマン2世がいます。

兄オスマン2世の即位後。皇帝の命令で処刑されました。

メフメト皇子はどのような人物だったのかご紹介します。

目次

メフメト皇子の史実

名前:シェフザーデ・メフメト(Şehzade Mehmed
国:オスマン帝国
地位:皇子
生年:1605年
没年:1621年
享年:16歳
父:アフメト1世
母:キョセム・スルタン
  
子:

メフメトは、アフメト1世の治世の1605年に生まれました。

父は14代皇帝 アフメト1世
母はキョセム・スルタン。
 母はマフフィルーゼ・ハトゥンではないかという説もありましたが。現在ではキョセムの息子と言われています。

1609年から兄オスマンとともにホカ・オメル・エフェンディの教育を受けました。

1617年。父のアフメト1世が亡くなりました。
即位したのは伯父のムスタファ1世。しかし3ヶ月で退位させられ。
1618年2月26日。兄のオスマン2世が即位しました。

オスマン2世の時代に処刑

1618年にオスマン2世は即位したころは兄弟を殺害しませんでした。

1621年。オスマン2世はポーランド遠征を決定。
遠征前に、王位に担がれる危険性のあったメフメトの殺害を決めました。

オスマン2世はイスラム長老エサト・エフェンディに皇子殺害の許可を認める宗教的見解(ファトワ)を出すように言いましたが、エサトは拒否。

しかしルメリ州のケマレッディン・エフェンディがファトワを出しました。オスマン2世はメフメトの処刑を命令。

1621年1月12日。メフメト皇子は処刑されました。

メフメトは死刑執行人がメフメトの首にロープをかけようとしてるとき、このように言いました。

「オスマンよ!アッラーによってあなたの統治が台無しになることを祈ります。あなたが私の命を奪った以上のことはできないことを願っています!」

オスマン家の皇子が殺害されるのは18年ぶり。アフメト1世が即位して以降は皇子の殺害はなかったので人々は驚きました。

メフメトの死後もイスタンブールに12日間にわたって大雪が降りました。人々は皇帝が弟を殺害したのをアラーが怒っているからだと噂しました。

メフメト皇子はイスタンブールのスルタン・アフメト・モスク(ブルーモスク)にあるアフメト1世廟の隣に埋葬されました。

 

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