メフメト3世はオスマン帝国の13代皇帝です。
スレイマン1世以来30年ぶりに軍を率いて遠征した皇帝です。即位後に19人の兄弟を処刑した皇帝。
先代から続くハプスブルグとの戦いでは一進一退が続き、メフメト3世の時代には決着は付きませんでした。国内ではアナトリア方面でジェラーリーと呼ばれる者たちの反乱が多発。
治世の末期には大臣とイスラム長老勢力が軍とつながり武力衝突に発展しました。
メフメト3世はどのような人物だったのかご紹介します。
メフメト3世の史実
名前:メフメト3世(III. Mehmed)
国:オスマン帝国
地位:皇帝
在位:1595年1月15日 – 1603年12月22日
生年:1566年5月26日
没年:1603年12月22日
父:ムラト3世
母:サフィエ・スルタン
妻:ハンダン・スルタン、ハリメ・スルタン
子:マフムト皇子、アフメト1世、ムスタファ1世
1566年。メフメト皇子が誕生。
父はオスマン帝国 第12代皇帝ムラト3世
母はサフィエ・スルタンです。
メフメトが生まれたのはスレイマン1世の時代。
当時は父ムラトはマニサの知事をしていました。
メフメトが生まれたその年に曽祖父スレイマン1世が崩御しました。
8歳のときに父ムラト3世が即位。皇太子になりました。
1582年6月2日。割礼を受けました。
1583年。マニサの知事になりました。このとき家政婦として仕えていたハンダン・スルタンと親しくなりました。
オスマン帝国の皇子は地方の知事を経験するのが慣例になっていましたが。メフメト3世は知事を経験した最後の皇帝になります。
皇帝
1595年。父ムラト3世が崩御。メフメト3世が即位しました。このとき29歳。
19人の兄弟を処刑
父ムラト3世には沢山の子供がいました。
しかし他の兄弟は歳が離れていたので皇位争いには影響はなく。メフメト3世はすんなり皇帝になれました。しかしオスマン帝国には兄弟殺しの慣習があります。皇帝は兄弟を殺害しても違法ではない。というだけで絶対処刑しなければいけないと決まってるわけではありませんが。伝統として続いていました。
メフメト3世は兄弟は殺したくありませんでしたが、大臣たちに説得され兄弟の処刑を決定。
兄弟殺しの慣習を知らない幼い弟たちは兄の即位にお祝いの言葉を述べ。兄弟を殺さなければならないメフメト3世はそっと涙したといいます。
その後。19人の幼い兄弟は処刑されました。処刑された棺桶の行列があまにも長いことに人々は驚き悲しみ。メフメト3世は不人気な皇帝になりました。
次のアフメト1世が即位した時には兄弟殺しは行いませんでしたが。このときの人々の非難が影響しているとも言われます。
帝都の中での権力闘争
メフメト3世の時代、2人の宰相、セルダール・フェルハド・パシャとコカ・シナン・パシャが対立していました。
メフメト3世の母サフィエ・スルタンとその娘婿のダマト・イブラヒム・パシャはコカ・シナン・パシャを支持。
1595年7月7日。母の圧力もありメフメト3世はワラキアでの失敗を理由にセルダール・フェルハド・パシャを大宰相の座から解任。コカ・シナンに代えました。
この問題は後に兵士たちによる大きな騒動に発展します。
ハプスブルクとの長期戦争
メフメト3世が即位した時。先代が初めたハプスブルグ領ハンガリー方面での戦争はまだ続いていました。
1595年。オーストリア軍がエステルゴン城を包囲。エステルゴン城はな抵抗を続けましたが援軍が到着せず、数で勝るオーストリア軍に降伏しました。
シナン・パシャ率いるオスマン軍はブカレストとトゥゴヴィステを占領しましたが。すぐに反撃にあって撤退しました。撤退の最中に沼地に落ちたオスマン軍の兵士の多くが死亡。ドナウ河畔のヴィシェグラードも敵に占領された。
オスマン軍は多くの重要な城や都市を失い、イスタンブールの官僚や兵士たちは反発した。皇帝の遠征を望みました。彼らの声に答える形でメフメト3世はようやく遠征を決定。遠征に反対する母后サフィエ・スルタンを説得。
1596年6月20日。メフメト3世は軍を率いて遠征しました。皇帝の遠征はスレイマン1世の時代依頼。久しぶりです。
メフメト3世率いるオスマン軍はケレシュテスの戦い(ハチョヴァの戦い)でハプスブルクとトランシルヴァニア軍を破りました。勝利して帝都に戻ったメフメト3世は、今度は宰相たちに遠征を命じました。
1596年。戦争で功績をあげたシガラザード・ユスフ・シナン・パシャを大宰相に任命しました。しかし、母からの圧力で、その直後にダマト・イブラヒム・パシャを大宰相にしました。
しかしその後、幾つかの城が奪われ。オスマン帝国とハプスブルグの戦争は一進一退が続きました。
ジェラーリ反乱
メフメト3世時代の大きな出来事はアナトリアでのジェラーリの反乱でした。ジェラーリとは「反乱者」という意味です。
他国との戦争が続いていたころ。国内のアナトリアやシリアでは反乱が起きていました。反乱者はジェラーリと呼ばれました。彼らは重税に困って逃げ出した者。失業者などが中心でした。
彼らはかつて軍にいたことがあり銃の扱いに慣れています。彼らは戦いが終わると解雇され銃を持ったまま村に戻りました。でも戻っても仕事がないので山賊になっていました。
反乱を恐れた村人が逃亡。村そのものが消滅することもありました。村を失った領主が反乱軍に合流する悪循環も起こりました。
オスマン帝国の下級軍人カラ・ヤズク・アブドゥルハリムが反乱を起こすと、ジェラーリたちはカラ・ヤズクに合流。彼らは1600年にウルファの街を占領。カラ・ヤズクは自らスルタンだと宣言しました。メフメト3世はこの噂を払拭するため反乱軍への厳しい処分を命じました。
1601年。カラ・ヤズクはバグダッド総督ソクルザド・ハサン・パシャの率いる軍に敗れサムスン近郊に逃亡。1602年に死亡しました。
しかし弟のデリ・ハサンは抵抗を続けソクルザデ・ハサン・パシャを殺害。ハドゥム・ヒュズレフ・パシャの指揮下にある軍隊を破った。その後、キュタヒヤまで進軍し同市を占領して焼き払いました。
しかしオスマン帝国はハプスブルグとの戦いが続いているので大規模な制圧作戦ができません。
ジェラーリ反乱は次のアフメト1世の時代まで続きます。
イギリスとの関係
1599年。イギリス女王エリザベス1世はオスマン帝国に贈り物の輸送隊を送りました。本来は前任者ムラト3世に贈ったのですが到着する前に亡くなったのでメフメト3世が受け取りました。
その中には、宝石をちりばめた大きな時計仕掛けのオルガンが含まれていました。このオルガンは音楽の終わりに歌いながら羽を振るわせる黒鳥の群れが踊るようにしかけが施されていた。
またイギリスからの贈り物には、女王からメフメット3世の母サフィーエ・スルタンへの手紙を添えた儀式用の馬車がありました。
これらの贈り物は1581年に締結されたオスマン帝国内でのイギリス商人の優先権を与える貿易協定へのお礼。そして両国のさらなる関係強化を目的にしていました。当時イギリスはスペインと対立。そこでイギリスはオスマン帝国と同盟しようとしていたのです。
しかし、サフィエ・スルタンの通訳や親英派のハサン・パシャの死によってヨーロッパに理解を持つ者が減り。ハプスブルグとの戦争が泥沼化して国内で反キリスト教国感情が高まり。結局、イギリスとの同盟は成立しませんでした。
首都での兵士たちの反乱
大宰相派とイスラム長老派が対立、武力衝突に発展しました。
大宰相はイェニチェリ(常備歩兵軍)、イスラム長老は常備騎兵と結びついて、ふたつの勢力が武力衝突しました。最終的には治まりましたがこのとき常備騎兵軍がメフメト3世の退位を要求しました。
疑心暗鬼になったメフメト3世は有力な後継者とされたマフムト皇子とその使用人たち反乱を煽った疑いで処刑しました。
こうして首都での騒動は収まったものの、兵士たちの騒動はこの後も何度も起こります。
この時代、官僚・イスラム宗教勢力・ハレムなどの勢力が政治を動かすようになり。ムラト3世はリーダーシップを発揮できないままでした。
不摂生な生活を続けて38歳で死亡。
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