マトラークチュはオスマン帝国外伝・愛と欲望のハレムに登場する人物。
大宰相イブラヒムと親しくしたりサドゥカに恋したりするマトラークチュは実在の人物なのです。
科学や数学、絵画、歴史に詳しく、様々な分野で天才的な才能を発揮しました。ボスニアのレオナルドダビンチといわれることもあります。
そんなマルチな才能をもったマトラークチュとはどんな人だったのでしょうか。
マトラークチュとは
名 前:マトラークチュ・ナス(Matrakçı Nasuh)
生 年:1480年
没 年:1564年
父:アブドラ
1480年。マトラークチュはボスニアのビソコという町で産まれました。
デヴシルメという少年の徴用制度によってオスマン帝国に連れて行かれました。これはキリスト教徒の少年を連行してイスラム教徒に改修・訓練させてオスマン帝国のために働かせる制度です。
デヴシルメで徴用・訓練された人々は軍人や役人になってオスマン帝国を支えました。マトラークチュはイスラム教徒の家に産まれましたが徴用の対象になってます。ボスニアはオスマン帝国の属国でキリスト教徒も多い国です。そのためデヴシルメの対象になったのでしょう。
徴用されたマトラークチュはエンデルンの学校に入りました。学校ではイスラム教、アラビア語、ペルシャ語、建築、詩、数学、地理、哲学などを勉強しました。
彼は頭がよく5カ国語を話すことができました。語学力が評価されてオスマン帝国海軍に採用されました。
その後、様々な能力を発揮してオスマン帝国で活躍します。
様々な才能
数学
数学や幾何学を研究。1547年にそれまでの研究成果をまとめた本を執筆。セリム1世(スレイマンの父)に提出しました。マトラークチュの書いた本は後の時代まで使われました。
武器の解説本を執筆
マトラーゥチュは武器職人としても活躍しました。軍人たちに武器の使い方も教えていました。その腕浜はスレイマン1世からも高い評価を得て皇帝から与えられたUstad(マスター、高い技術を持つ人を意味する称号)の称号が与えられました。様々な武器の扱い方を説明したガイドブックを書いています。
歴史の研究者
マトラークチュは8代皇帝バヤジット、9代セリム1世時代のオスマン帝国の歴史書をつくりました。
優れた精密画家
様々な学問に優れていたマトラークチュは、細密画の画家としても高い評価をうけていました。街の様子や風景を細かく描くのが得意でした。コンスタンチノーブルの多くの市街地や建物の絵画を残しています。彼の作風はマトラークチュスタイルといわれ評判になりました。
マトラークチュはオスマン帝国の軍に同行して絵を描きました。
1532から55年に行われたのオスマン帝国とペルシャとの戦争に従軍。
スペインとの戦争では海軍提督バルバロッサに同行しました。遠征先の都市の様子も詳しく記録しています。
マトラークチュの残した絵画は当時の様子を知る貴重な記録になってます。
晩年にはオスマン帝国の役人の中でも最高の「Mirahur」という位につきました。
1564年に他界。享年84。
マトラークチュは現在のボスニアでも有名な人物です。「ボスニアのレオナルドダビンチ」と呼ばれ、彼の業績を伝える博物館やマトラークチュの名前がついた通りがあります。
日本では知られていないので架空の人物かと思ってしまいますが、ボスニアでは有名な人物なんですね。
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