メアリー・ステュアート(Mary Stuart)はスコットランドの女王。
ドラマ「クイーン・メアリー 愛と欲望の王宮(原題は REIGN)」のヒロインにもなってますね。波乱の人生を歩んだ女性です。
メアリーは産まれてすぐに女王になりました。イングランドと対立し、フランスに亡命しました。
母マリーはフランス出身。メアリーもフランスの影響を強く受け、名字の「Stewart」をフランス式の「Stuart」に変えるくらいでした。
フランスでは王太子フランソワと結婚。フランス王妃にもなります。子供に恵まれなかったメアリーフランソワの死後。スコットランドに戻り、スコットランド女王として統治をおこないました。再婚して息子のヘンリーも産まれます。
メアリーは恋の多い女性でもありました。夫が謎の死をとげ、恋人と再婚しますが、貴族たちの反乱によって廃位されます。
イングランドに亡命後、イングランド王位を狙いますが最後は処刑されました。
波乱の人生を歩んだメアリー・スチュアートとはどんな人だったのでしょうか。
メアリー・ステュアートとは
名前:メアリー・ステュアート(Mary Stuart)
通称:メアリー1世
地位:スコットランド女王、フランス王妃
生年:1542年12月8日
没年:1587年2月8日
在位:1542年12月14日~1567年7月26日
父:ジェームズ5世(スコットランド王)
母:メアリー・オブ・ギーズ(マリー・ド・ロレーヌ)
子:ジェームズ6世/1世
産まれていきなりスコットランド女王
1542年スコットランド国王ジェームズ5世の第3子として産まれました。
母はフランスの大貴族ギーズ家の出身。マリー・ド・ロレーヌ(Marie de Lorraine)とも呼ばれます。
メアリーには兄が二人いましたが、若くして亡くなっていました。
1542年。父・ジェームズ5世が急死。
メアリーはわずか生後6日で王位を継ぎました。
当時のスコットランドは王室の権力が弱く、イングランドやフランスの援助を受けた貴族たちが力を持っていました。
イングランド国王ヘンリー8世の圧力でエドワード6世と婚約しました。ヘンリー8世の死後、イングランドの権力を握ったサマセット公エドワード・シーモアはヘンリー8世とメアリーの結婚を進めようとしましたが、スコットランドは拒否。
1547年。イングランド軍がスコットランドに攻めてきました。スコットランドは敗退しましたが、フランスに救援をもとめます。
1548年。フランスはイングランドに宣戦布告。サマセット公の目論見は失敗しました。
フランスに亡命
母メアリー(以後マリー)のすすめでフランスに亡命。マリーはフランスの大貴族出身、実家の影響力を使ってフランスに助けを求めました。
マリーはスコットランドに残り領地を治めました。
メアリーはフランス国王アンリ2世のもとで育てられました。
1558年4月24日。メアリーは王太子フランソワと結婚しました。メアリー16歳。フランソワ14歳。メアリーが2歳年上でした(フランソワは早生まれなので現代の感覚だと1歳年上)。
11月。イングランド女王にエリザベス1世が即位。するとアンリ2世は、庶子のエリザベス1世が王位を継ぐのは問題だと抗議。メアリーに正当な王位継承権があると言いがかりをつけます。アンリ2世はメアリーにイングランドの正式な王位継者を意味する紋章を使用させ。フランスやメアリーとエリザベス1世との仲は悪化しました。
フランス王妃
1559年7月10日。アンリ2世が死亡。フランソワが即位しました。メアリーはフランス王妃なりました。17歳でした。
メアリーはフランス王妃になったあとも、イングランド王位継承者の紋章を使用し続けました。ローマ教皇やカトリック教徒もメアリーが正当なイングランドの王位継承者と認めていました。
イングランド国内にもエリザベス1世の即位に不満な者がいたので、エリザベスにとってはメアリーの存在は邪魔なものになっていました。
1560年。フランソワ2世が16歳で病死。王位は弟のシャルル9世が継ぎました。
スコットランドに帰国
1561年。子供のいないメアリーはスコットランドに帰国。
異母兄のマリ伯ジェームズ・ステュアートと、ウィリアム・メイトランドの助けを借りて政治を行います。
当時のスコットランドはプロテスタントとカソリックが対立していました。メアリーは両方の宗派を認め、国内をまとめようとします。
1562年。カソリック派のゴードン家が反乱をおこします。マリ伯が鎮圧しました。
メアリーは再婚相手を探すことになりました。
メアリーが興味をもったのはスペイン国王フェリペ2世の息子ドン・カルロスでした。しかし、エリザベス1世やフランス国王の母・カトリーヌ・ド・メディシスの妨害が入り実現しませんでした。
その後、ダーンリー卿ヘンリー・スチュアートと会ったメアリーは背が高くスマートなダーンリー卿に一目惚れしたといいます。ダーンリー卿はカトリック教徒。彼はスチュアート家の血をひきながら、イングランド国王ヘンリー7世の曾孫でもあったのでイングランドの王位継承権ももっていました。
メアリーはスチュアート一族のダーンリー卿と再婚を考えるようになります。
エリザベス1世は反対しましたが、ダーンリー卿もメアリーとの結婚を考えるようになります。
1565年。メアリーはダーンリー卿と再婚しました。
メアリーはヘンリーにロス伯、オールバニ公の位を与えました。これは王族にしか与えられないものでした。この決定は貴族達は不満でした。
しかも結婚後、ヘンリーの傲慢な性格がわかると、メアリーの愛情も冷めていきました。
メアリーはやがて秘書のデイヴィッド・リッチオを寵愛するようになりました。
1565年。マリ伯が反乱をおこしました。マリ伯はエリザベス1世の援助を受けていまいた。
メアリーはかつて反乱をおこして処分していたゴードン家の地位を復活させました。イングランドの援軍がこなかったこともありマリ伯を撃退しました。マリ伯はイングランドに亡命します。
1566年。ホリールード宮殿で食事中に、秘書のリッチオが眼の前で殺害されました。あまりにもショックに流産しそうになりましたが、無事出産することができました。
産まれた男の子はジェームズと名付けられました。
ジェームズはリッチオの子ではないかと噂をたてられました。メアリーはダーンリの子だと近い、夫のヘンリーにも誓わせます。
しかし子供が産まれても、ヘンリーとの関係はよくはなりませんでした。不仲なのを知ったものからヘンリーを暗殺してはどうかと提案を受けたこともありましたが、メアリーは断ったといいます。
廃位
その後、メアリーはボスウェル伯と親しくなりました。
1567年2月10日。エディンバラのカーク・オ・フィールド教会でヘンリーが殺されているのが発見されました。
犯人は分かっていませんが、ボスウェル伯だと噂されました。
ボスウェル伯はメアリーに結婚を申し込みます。ダンバー城にメアリーを連れ込み、結婚しました。結婚はメアリーも同意のうえだったともいわれます。
二人の結婚はカトリック、プロテスタント両方から反対されました。
反ボスウェル派の貴族たちが反乱を起こしました。
6月15日。メアリーは投降。7月26日メアリーは廃位されました。
息子のジェームズ6世がスコットランドの王になりました。
1568年。メアリーは幽閉されていたロッホ・リーヴン城を抜け出して、兵を集めます。6000人の兵で反乱を起こしましたが、マリ伯に鎮圧されました。
メアリーはイングランドのエリザベス1世のもとに逃れました。メアリーは軟禁されたといわれますが、軟禁とはおもえないくらい自由な暮らしをしていたといわれます。
メアリーはイングランドの王位継承権を主張しました。エリザベスの廃位や暗殺を計画したりしました。
1586年。カトリック教徒のバビントンがエリザベスを暗殺しようとした事件が発生。バビントン事件といいます。この事件ではメアリーが関わった証拠が見つかり、メアリーに死刑判決がでました。
1587年2月8日。メアリーは死刑になりました。
メアリーの死後
1588年。メアリーの死刑を知ったスペインのフェリペ2世はイングランドに艦隊を派遣。アルマダの海戦がおこなりました。スペインの無敵艦隊がイングランド艦隊に敗れるという事件がおきています。
カトリック教徒のフェリペ2世は、プロテスタントのエリザベス1世を違法な統治者と考えていました。メアリー・スチュアートをイングランド女王にしようと企んでいました。それを阻止されたのも戦争を起こした原因のひとつといわれています。
1603年。イングランドのエリザベス1世が重体になりました。エリザベス1世には息子がいなかったことから、ジェームズ6世がイングランドに迎えられました。
エリザベス1世の死後、7月25日にジェームズ6世は、イングランド国王ジェームズ1世として即位しました。
イングランドとスコットランドは共同の王を持つことになりました。1707年にはイングランドとスコットランドが合併。グレートブリテン王国になりました。
その後、スチュアート朝は血統がとだえる1714年まで続きます。
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