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マフフィルーゼ・ハトゥン|オスマン2世の生母はキョセムのライバルだった

オスマン帝国国旗

マフフィルーゼ・ハトゥンは16世紀末から17世紀のオスマン帝国の女性。

14代皇帝 アフメト1世の皇帝妃

16代皇帝オスマン2世の母親です。

ただしオスマン2世の即位前に亡くなったので母后(ヴァリデスルタン)にはなってません。

トルコドラマ「新オスマン帝国外伝・影の女帝キョセム」にもハレムにいる側女として登場します。

マフフィルーゼ・ハトゥンとはどのような人物だったのかご紹介します。

 

目次

マフフィルーゼ・ハトゥンの史実

名前:マフフィルーゼ・ハトゥン(Mahfiruze Hatun)
 マフフィルーゼ・ハティジェ・スルタン(Mahfiruz Hatice Sultan)
国:オスマン帝国
地位:
生年:1590年
没年:1612年?
父:不明
母:不明
夫:アフメト1世(オスマン帝国第14代皇帝)

子:オスマン2世
バヤジト皇子?

出身地、家族、出自は不明。

ギリシャ生まれという説もありますがフランスの小説に登場する設定なので信憑性は低いです。

年齢はアフメト1世と同じくらい。1590年かその少し前に生まれたのかもしれません。

 

アフメト1世の時代

1603年。皇帝アフメト1世が即位。
アフメト1世の母后ハンダン・スルタンと大叔母のゲヴェルハン・スルタンは、アフメト1世のために側女を選びました。その中にマフフィルーゼもいました。

名前の「マフフィルーゼ」は「栄光の月」「昼間の月」「ターコイズブルーの月」などの意味があります。

1604年11月。マフフィルーゼはスルタン・アフメト1世の長男・オスマン皇子を出産。

オスマン2世誕生

アフメト1世は帝国の建国者にちなんで「オスマン」と名付けました。最初の男子ということで盛大なお祝いが行われました。

しかしマフフィルーゼの寵愛は長くは続きませんでした。その後、キョセムが1605年にメフメト皇子を出産。キョセムは1605年末から1606年初めにかけてハセキ(正妃)の地位につきました。

マフフィルーゼは皇帝妃(バシュカディン:第一夫人)のままでした。

俗説ではマフフィルーゼはケセム・スルタンを怒らせてスルタンの命令で罰を受け宮殿から追放されたという説もあります。

でも第一皇子の母がハレム内の喧嘩で追放されるとは考えられません。また大使の報告ではマフフィルーゼはこのあともハレムにいたようです。

マフフィルーゼは子供の教育に熱心でした。息子のオスマンは後に有名な詩人になり当時の皇子の中でも最も文化的な人物と言われました。

マフフィルーゼは慈善事業を行いエスプに建設する宿泊施設の援助をしました。

アフメッド1世の一番のお気に入りはキョセム・スルタンかもしれませんが。マフフィルーゼも完全に寵愛を失ったわけではなかったのです。

 

オスマン以外に子供がいる?

オスマン皇子のあともマフフィルーゼには何人かの子供が生まれたとされます。でも正確なことはわかっていません。

1612年に誕生したバヤジト皇子はマフフィルーゼの子供とされます。
というのもオスマン帝国にいた他国の大使が「ジハンギル皇子はオスマン皇子の全弟(両親が同じ)で有力な皇子」と報告しているからです。

ヴァリエ大使は1612~1615年にかけての報告の中で。「スルタンには4人の息子がおり、2人は生きているスルタナから、2人は死んだスルタナから生まれた」と報告しています。

生きているスルタナはキョセム。死んだスルタナとはマフフィルーゼです。

マフフィルーゼは1612年に何らかの理由で亡くなったようです。バヤジト皇子を出産した後の合併症で亡くなったかもしれませんし、伝染病の可能性もあります。

マフフィルーゼは自分が建てたエイユップ・スルタン・モスクにある墓地に埋葬されました。

母后にはなっていない

一部の記事ではマフフィルーゼは息子のオスマン2世が即位した後も生きていたと主張する人もいます。

でもオスマン2世時代に母后(ヴァリデスルタン)がいたという記録はありません。マフフィルーゼの記録も1612年以降には全くありません。

1617年。アフメト1世が死去しました。このとき母親のマフフィルーゼが生きていてハレムで影響力をもっていれば皇帝オスマン2世が誕生したはずです。

皇帝になったのは精神的に不安のあるムスタファ1世でした。でもムスタファ1世は皇帝としての役目をはたせずわずか3ヶ月で退位させられます。結局、オスマン2世が13歳で即位しました。

オスマン2世の時代には母后はいませんでした。オスマン2世じだいのどこにもマフフィルーゼがいたという記録がありません。

マフフィルーゼ生きていたら母后になってセフィエやハンダン、後のキョセムのように政治に関わってもっと有名になっていたかもしれません。

さらにマフフィルーゼが1618年まで生きていたら1616年に完成したスルタン・アフメト・モスクに埋葬されているはずですが。そうではありません。

マフフィルーゼが亡くなったのが1616年より前だったからです。

そして1618年にオスマン2世が即位した時に母の墓を母后にふさわしい格式に改装。墓碑を作りました。そのためエイユップ・スルタン・モスクにあるマフフィルーゼの墓碑に1618年と刻まれているのです。

マフフィルーゼのもう一人の息子と考えられるバヤジト皇子はムラト4世の時代に処刑されています。

 

ドラマ

新オスマン帝国外伝・影の女帝キョセム 2015年、トルコ 演:ディララ・アクシュエク

アフメト1世の側女。第一皇子オスマンの母親。ドラマではチェルキス出身。最初は「チェルケス・ギュゼリ・ラシャ」(チェルケスの美しいラーシャ)と呼ばれ。後にマフフィルーゼに名前が変わりました。

 

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