ララ・ムスタファ・パシャはオスマン帝国の政治家で軍人。
スレイマン1世からムラト3世の時代に活躍。ベネチアが支配していたキプロス島の占領に成功したので「キプロスの征服者」として知られます。
サファビー朝との戦争ではコーカサス地方を占領する手柄を上げました。
ララ(Lala )とは教師・皇子の指導係のことです。バヤジット皇子の教師をしていたので「ララ」のニックネームでよばれました。
セリム皇子とバヤジット皇子の対立ではララ・ムスタファも関わったといいます。
ドラマ「オスマン帝国外伝」では「師父」と訳され。劇中で「師父ムスタファ」とよばれていました。
ララ(師父)ムスタファ・パシャ
名前:Lala Mustafa (ララ・ムスタファ)
地位:オスマン帝国大宰相
生年:1500年ごろ
没年:1580年
父:不明
母:不明
兄:デリ・ヒュスレフ・パシャ
親戚:ソコルル・メフメト・パシャ
妻:ファトマ・ハトゥン(メフメト・ベイの娘)
再婚:ヒューマシャ・スルタン(
子供:
メフメト・パシャ(母:ファトマ・ハトゥン)
アブドゥルバキ・ベイ(母:ヒューマシャ・スルタン)
1500年ごろ。ボスニアのソコル村の出身。
兄にスレイマン1世時代に大宰相になったヒュスレフ・パシャがいます。
スレイマン1世の末期からセリム2世時代に大宰相になったソコルル・メフメト・パシャは親戚だと言われます。
デヴシルメでオスマン帝国の役人になった兄のヒュスレフ・パシャを通してオスマン帝国のエンデルン(宮廷内にある学校)に入りました。高等教育と訓練を終えた後、彼はスレイマン1世の理髪師として6年間働きました。
その後、スレイマン1世に働きが認められミハラール(皇帝の馬の管理をする人)になりました。
バヤジット皇子の教育係(師父)を務めました。
1555年。リュステム・パシャが大宰相になったころ。パレスチナの知事になりました。そこで1年間働きました。
セリム皇子とバヤジット皇子の対立に関わる
1556年。マニサのセリム皇子の宮殿で教育係(師父)になりました。
セリムは既に成人しているのでセリムの子どもたちの教育や訓練を担当していたようです。子どもたちの教育を担当するだけでなくセリムの側近として相談相手にもなりました。
バヤジット皇子がセリム皇子を批判する手紙をスレイマン1世に報告しています。この手紙は偽物という説もあります。
いずれにしてもララ・ムスタファはセリム皇子とバヤジット皇子の不破をスレイマン1世に報告して二人の対立を煽る結果になりました。
息子たちの対立を不安に思ったスレイマン1世は、セリムをコンヤに、バヤジットをアマスヤに移動させることにしました。
バヤジット皇子は移動を拒否、最終的にスレイマン1世を怒らせます。
1559年。スレイマン1世はバヤジット皇子を謀反人と判断。セリム皇子に正規軍の指揮権を与えてバヤジット皇子を討たせました。ララ・ムスタファはソコルル・メフメトとともにセリム皇子に味方して戦い。バヤジット皇子の軍に勝ちました。
セリム皇子に気に入られたララ・ムスタファはかつて仕えたバヤジット皇子に敵対したことになります。
大宰相リュステムがララ・ムスタファをセリムから引き離そうとしたこともありましたが。一度はセリムが拒否。
1560年。リュステムはララ・ムスタファをブディン・ポジェガの知事に任命しました。でもララ・ムスタファはセリムのもとを離れませんでした。
その後もリュステムはララ・ムスタファをヴァンの知事に任命。ついにセリムのもとを離れることになります。
ララ・ムスタファはセリム皇子から必要とされていたようです。
1666年。皇帝スレイマン1世が死去。息子のセリムが皇帝になりました。
セリム2世の時代
セリム2世の時代。
ララ・ムスタファには出世のチャンスが訪れましたが。大宰相ソコルル・メフメト・パシャが大きな力を持っていました。
1567年。イエメンで反乱が起きたので反乱を鎮圧するために派遣されました。
大宰相のいいなりになるのが嫌なセリム2世はララ・ムスタファ・パシャも宰相に採用。ララ・ムスタファ・パシャは積極的にセリム2世に進言しました。以後、ララ・ムスタファは政治の主導権を握るため、大宰相ソコルルに対立するようになります。
キプロスの征服
このころ。地中海の制海権を握りたいオスマン帝国にとって、キプロスを支配しているベネチアは邪魔な存在でした。ギリシャ人の救援要請を受けてそこでセリム2世はキプロス征服を決断。大宰相ソコルルは反対しましたが。ララ・ムスタファ・パシャは賛成しました。
1570年5月。セリム2世はララ・ムスタファ・パシャを司令官に任命しました。
ララ・ムスタファ・パシャは島に軍隊を上陸させました。激しい戦いと包囲の後、城を落として島を征服しました。その後、オスマン帝国艦隊が十字軍艦隊に敗れるという波乱はありましたが、十字軍は島に上陸することができず。ララ・ムスタファ・パシャたちは島を守り切ることができました。その後、アナトリアからトルコ人を移住させて行政組織を作りました。
ララ・ムスタファは、敵に対して残酷であることが知られていました。都市の占領後。観の安全を保証しておきながらベネチア司令官、マルコ・アントニオ・ブラガディンや他のベネチア軍将校を殺害しました。
1571年9月15日。大砲の轟音の中で大歓迎式典が行われ、キプロスからイスタンブールに戻った彼は歓迎されました。
1574年。皇帝セリム2世が死去。息子のムラトが皇帝になりました。
1575年。シェフザーデ・メフメト(スレイマン1世とヒュッレムの息子)の娘・ヒューマシャ・スルタンと再婚しました。
これより前。ララ・ムスタファはマムルーク州総督カンス・ガブリの孫娘ファトマ・ハトゥンと結婚しましたが。死別していました。
ムラト3世の時代
ムラト3世の時代になってもソコルルは大宰相をつとめていました。ララ・ムスタファ・パシャたちは自分たちが政治の主導権を握ろうとソコルルの平和路線を批判しました。
コーカサスの占領
サファビー朝イランでは内輪もめで国が不安定になっていました。そこでララ・ムスタファたちはこの機会にサファビー朝を叩くべきと主張。会議でイランとの開戦が決定しました。
1578年4月5日。ララ・ムスタファ・パシャは軍を率いてイスタンブールを出発。エルズルムに軍隊を集めました。側近には天才的な戦術家のオズデミロウル・オスマン・パシャもいました。彼らはイランとの戦いに勝って北アゼルバイジャン、コーカサス、ダゲスタンを征服しました。
1579年9月30日。大宰相ソコルル・メフメト・パシャが何者かに暗殺されました。政敵の手引だと言われます。
ララ・ムスタファ・パシャに帰還命令が来ました。彼は軍の指揮をオズデミロウル・オスマン・パシャにまかせてイスタンブールに戻り第二宰相に昇進しました。
大宰相になる
1580年4月28日。大宰相シェムシ・アフメット・パシャが死亡。
ララ・ムスタファ・パシャが大宰相になりました。
ところが。
1580年8月7日。ララ・ムスタファ・パシャが死去。享年80。
わずか3ヶ月の大宰相でした。
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