フアン・パチェコ(Juan Pacheco)はカスティーリャ王国の貴族です。
カスティーリャ王子エンリケとは子供の頃からのつきあいでした。エンリケが国王になってからも仕えましたが力を持ちすぎたためエンリケ4世に警戒されます。エンリケ4世はベルトランたち新しい家臣を寵愛するようになりました。不満を溜め込んだフアン・パチェコは王に同じように王に不満を持つ貴族を集め反乱を起こします。アルフォンソ王子を王にまつりあげようとしましたがアルフォンソ王子は若くして死亡。
かわりにかついだイサベル王女を操ることができず、エンリケ4世と和解せざるを得なくなります。
フアン・パチェコについて紹介します。
フアン・パチェコの史実
名前:フアン・パチェコ(Juan Pacheco)
地位:エスカロナ公爵
生年:1419年
没年:1474年
父:アルフォンソ・テレスヒロン(カスティーリャ王国国王)
母:マリア・パチェコ
妻:マリア・ポルトカレトロ
弟:
子供:1男4女
日本では室町時代。日野富子(1440~1496年)とほぼ同じ時代の人です。
おいたち
フアン・パチェコの両親はポルトガルの貴族でした。1385年にカスティーリャとポルトガルとの間で行われたアルジュバロータの戦いのあと、カスティーリャに亡命してベルモンテの領主になりました。
1419年。フアン・パチェコはベルモンテの近くトルヒーヨで生まれました。
パチェコの家族はカスティーリャ王室とも親しくなり、幼い頃のフアン・パチェコはエンリケ王子(後の国王エンリケ4世)の遊び相手になっていました。フアン・パチェコとエンリケ王子は親友になります。
フアン2世の時代
カスティーリャ国王フアン2世の側近アルバロ・デ・ルナに見出されて弟のペドロとともに宮廷に使えました。宮廷でも高い地位につきました。
1442年。名家のマリア・ポルトカレトロと結婚。カスティーリャ西部の街モガー(スペイン王国ウエルバ県)の領主になりました。
1445年。第一次オルメドの戦いに参戦。フアン2世とアルバロに反発する貴族たちと戦いました。
1449年。チンチーリャ・デ・モンテ・アラゴン(スペイン南部)の要塞の所有権を獲得しました。
1551年にはアデランタード(先遣都督)に任命されました。辺境で再征服を行う部隊です。
1553年。アルバロ・デ・ルナが王妃イサベル・デ・ポルトゥガルら反対派によって失脚。
代わりに力を持ったのがフアン・パチェコでした。
エンリケ4世の時代
1454年。フアン2世が死去。エンリケ4世が即位しました。
エンリケ4世の治世ではフアン・パチェコ、彼の弟ペドロ・ヒロン、カリーリョ大司教が権力を握りました。エンリケ4世はフアン・パチェコ達の力を抑えるため、ベルトラン・デ・ラ・クエバ、ミゲル・ルーカス・デ・イランツォ、ゴメス・デ・カセレスなど新しい人材を採用します。
1454~56年の間にフアン・パチェコはグラナダに進軍。アルキドナとアロラの村を占領しました。グラナダはイベリア半島に残った最後のイスラム教徒の国で長年キリスト教国と争っていました。
1456年にはドンファンマヌエルに新しい要塞を建てました。
1458~1464年の間にベルトラン・デ・ラ・クエバの地位が急上昇してフアン・パチェコの権力に陰りがみえはじめます。それでもフアン・パチェコは要職を務め勢力を維持し続けました。
1462年。エンリケ4世の妻・フアナ・デ・ポルトゥガル王妃が出産。フアナ・デ・カスティーリャ王女が生まれました。エンリケ4世はフアナ王女をアストゥリアスの王女(王位継承者)に指名。臣下を集めて忠誠を誓わせました。このときはフアン・パチェコも忠誠を誓いました。
しかし宮廷内のベルトラン・デ・ラ・クエバがサンティアゴ騎士団長に任命され。ベルトランの地位はかつてないほど上がりました。この決定に貴族たちの反発は高まります。
1464年。フアン・パチェコが率いる貴族連盟はフアンの父をエンリケ4世ではなくベルトランだと主張、サンティアゴ騎士団長からベルトランの解任し王子アルフォンソを騎士団長にすることを要求しました。
エンリケ4世は貴族たちの要求を受け入れベルトランを騎士団長から解任、アルフォンソがサンティアゴ騎士団になりました。
アビラの茶番
1465年6月5日。フアン・パチェコ達貴族とアルフォンソ王子はアビラの郊外に集まり儀式を行いました。
彼らは喪服を来て、エンリケ4世にみたてた木の人形を置いて批判すする声明を読み上げました。
フアン・パチェコらの言い分は「エンリケ4世は同性愛者で、イスラム教徒に同情的で、フアナ王女の父はエンリケ4世ではないためフアナ王女には王位継承の権利はない」というものでした。声明を読み終わるとフアン・パチェコ達は木像を壊しました。
そしてアルフォンソ王子を台にあげて「カスティーリャ王はアルフォンソ」と宣言しました。
歴史上はこの儀式を「アビラの茶番」といいます。
カスティーリャの内乱
フアン・パチェコ達貴族はアルフォンソを国王アルフォンソ12世と呼びました。
しかしエンリケ4世は退位していません。エンリケ4世を支持する貴族たちもアルフォンソがフアン・パチェコたちの操り人形だと知っていたので、フアン・パチェコ達の主張は認めませんでした。
こうしてエンリケ4世派とアルフォンソ派に分かれて内乱が始まります。アルフォンソはまだ11歳。フアン・パチェコが彼の副官になり事実上はフアン・パチェコが貴族連盟を動かしていました。
1467年8月。フアン・パチェコ達貴族連盟はオルメドでエンリケ4世の軍と戦います。この戦いでは決定的な勝利をおさめることはできませんでしたが、勝利を宣言します。
戦いのあと、エンリケ4世はアルフォンソを後継者として認めました。フアナ王女は王位継承権を奪われメンドーサ家に預けられます。
フアン・パチェコはサンティアゴ騎士団長になりました。
1468年。アルフォンソが突然亡くなってしまいます。死因はペストだと言われますが、フアン・パチェコは国王側の毒殺だと疑いました。
ギサントの協定
アルフォンソの死後、フアン・パチェコたちはイサベル王女を王位継承者にまつりあげます。
1468年9月18日。エンリケ4世とイサベルの間で「キサンドの協定」が結ばれます。
この条約ではイサベルがエンリケ4世の後継者であること。イサベルの結婚はエンリケ4世の承認が必要なことが書かれていました。
1469年。イサベルが条約に違反してアラゴン王子フェルナンドと結婚しました。
イサベルの行動はフアン・パチェコにとっても予想外でした。
フアン・パチェコはフランス大使とともにエンリケ4世に条約違反の無効を訴えます。エンリケ4世は「キサンドの雄牛の条約」と破棄。フアナ王女を王位継承者すると宣言しました。フアナ王女はエンリケ4世の娘と認められました。
フアン・パチェコは自ら正当性を否定したフアナ王女を支持することになってしまいました。
1472年。フアン・パチェコはエスカロナ公爵に任命されます。
1474年。フアン・パチェコは喉の病気で死亡しました。
エンリケ4世の幼い頃からの辛酉でありながら、エンリケ4世が国王になると対立していしまいます。敵味方が入れ替わる権力争いの中で、争いの中心にいたのがフアン・パチェコでした。
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