イスケンダー・チェレビはオスマン帝国の財務大臣。
大宰相イブラヒムとともに皇帝スレイマン1世を支えた大臣の一人です。
ところがサファビー朝ペルシャとの戦争中にイブラヒムとの関係が悪くなり、スレイマン1世の怒りをかって処刑されてしまいます。
イスケンダー・チェレビについて紹介します。
イスケンダー・チェレビの史実
名前:イスケンダー・チェレビ(Iskender Celebi)
地位:オスマン帝国政治家
生年:不明
没年:1535年
イスケンダーは裕福な商人の家に産まれました。
ヘイン・アフメド・パシャによって役人となり、彼の補佐をしました。やがてイスケンダーは出世して財務長官になりました。いくつかの州の税を集める役目と帝国の財務の管理を任されていました。
イスケンダーは最初からイブラヒムと仲が悪かったわけではありません。むしろ最初はイブラヒム・パシャとも良好な関係を築いていました。
1532~1535年の間におきたサファビー朝(ペルシャ)との戦争が彼とイブラヒム・パシャとの運命を狂わせました。
サファビー朝との戦争でイブラヒムとの関係が悪化
サファビー朝ペルシャとの戦争でイスケンダーは大宰相イブラヒムに付き従って遠征するように命じられました。イブラヒムもイスケンダーの持つ豊富な知識に期待していました。
イスケンダーはスレイマン1世からイブラヒムには逆らわないように命令されていました。
イブラヒム率いる部隊はアレッポからバグダッドへ進軍しました。一方、イスケンダー率いる部隊はスレイマン1世の命令でアゼルバイジャンに向かいました。
イブラヒムはイスケンダーを必要とていたので彼がアゼルバイジャンに向かうことには反対でした。しかしイブラヒムはスレイマン1世の命令なので仕方なく認めました。イブラヒムは自分が軍の最高司令官だと思っていたのに、スレイマン1世の命令で軍を動かされたことに不信感を持ちます。またイスケンダーに対しても良くない感情を持ちます。
イスケンダーの部隊はアゼルバイジャンで待機しました。彼はイブラヒムの進軍命令を拒否。「軍を待機させるのは皇帝の命令だ」と答えました。しかしイスケンダーの部隊は敵に囲まれてしまいます。
スレイマン1世がダプリーズに現地に到着。敵に包囲されたオスマン帝国軍を見て驚きます。味方の軍が危険にさらされているのをスレイマン1世は我慢できません。なぜそのような行動をとったのかというスレイマン1世の質問に対してチェレビーは満足な答えができませんでした。
イブラヒムはイスケンダー・チェレビの兵士がオスマン帝国の倉庫から宝物が盗んだとスレイマン1世に報告。イスケンダーは信用できない人物だと主張しました。一方、ヒュレム妃はイスケンダーを庇ったといいます。
1534年10月。スレイマンの怒りをかったイスケンダーは解雇されました。
1535年3月。イスケンダーはバグダッドの中央広場で絞首刑となりました。処刑の命令を出したのはイブラヒムでした。しかし、イスケンダーが処刑された翌年。イブラヒムもスレイマン1世の命令で処刑されることになります。
大富豪で詩人の保護者
イスケンダーはもともと裕福でしたが、さらに莫大な財産を築きます。イスケンダーは6000~7000人の奴隷を所有していました。大宰相イブラヒムが持つ奴隷の数よりも遥かに多かったのです。
その一方で詩人や文学家の保護に熱心でした。イスケンダー自身が詩を書いたという記録はありませんが、詩や文学の知識はあったようです。トルコの有名な詩人ハヤリなど多くの詩人たちを援助していたといいます。
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