ハリメ・スルタンは16世紀末から17世紀のオスマン帝国の女性。
第13代皇帝メフメト3世の妃。
第15代皇帝ムスタファ1世の母后です。
ハリメ(Halime)の意味は「優しい人」「忍耐強い人」。
本名は不明。
息子のムスタファ1世は精神的に不安定で短期間の間に退位させられましたが。クーデターが起こりもう一度即位しています。
そのためハリメは2度母后(ヴァリデスルタン)になりました。
ハリメ・スルタンとはどのような人物だったのか紹介します。
ハリメ・スルタンの史実
名前:ハリメ・スルタン(Halime Sultan)
国:オスマン帝国
地位:側女→母后
生年:不明
没年:1623年以降
父:不明
母:不明
夫:メフメト3世
子:
シェフザーデ・マフムト
ムスタファ1世
生い立ち
生年・出身地・両親は不明。
ジョージアあるいはアブハジア、チェルケスの出身とも言われます。いずれにしてもコーカサス出身のようです。
出産した年から考えると1560年代に生まれたのでしょう。
メフメト皇子がマニサの知事だったときにメフメト皇子のハレムに来ました。どういう経緯で来たのかは不明です。
メフメト皇子のハレムには他にハンダンがいました。ハリメとハンダンはメフメト皇子の皇子のハレムで勢力を分け合っていました。この時代は比較的争いが少なかったようです。
1582年。マフムトを出産。
1592年。ムスタファ(後のムスタファ1世)を出産しました。
メフメト3世の時代
1595年。皇帝ムラト4世が死去。
夫のメフメト3世がイスタンブルで即位。第13代皇帝になりました。
ハリメもすぐに他の側女たちとともにイスタンブルにやってきました。ハリメはハセキ・スルタン(正妃)ではなく皇帝妃のひとりです。
トプカプ宮殿のハレムでは母后サフィエ・スルタンが大きな力を持っていました。サフィエ・スルタンは息子の側女たちが力を持つのを防ぐためハセキスルタン(正妃)にするのを反対。
ハリメの息子マフムト皇子はイェニチェリ(常備歩兵軍団)たちに人気があり、次の皇帝候補と言われていましたが。ハリメは側女のままでした。
サフィエ・スルタンはハンダン・スルタンの息子アフメドを可愛がっていました。
というのもハリメの息子・アフメトは「父メフメト3世は祖母サフィエ・スルタンの傀儡だ」と批判していたからです。
そうした息子の言動は母の教育が悪いということになり、ハリメはハレムの中では劣勢に立たされます。
息子のマフムト皇子が処刑される
ハレムの中ではアフメト派が有利ですが。マフムトは兵士たちに人気がありハレムの外ではマフムト派が有利でした。
1605年。ハリメは占い師に手紙を送り、息子のマフムトが即位できるのか。夫のメフメト3世がどのくらい長く生きるのか訪ねました。
占い師の返事はハレムの黒人宦官・アブデュレザクアガに見つかってしまい。メフメト3世とサフィエ・スルタンに手紙を見られてしまいます。その手紙にはメフメト3世はもう長くない。マフムトが即位すると書かれていました。
メフメト3世は激怒しました。
さらにこの時期。メフメト3世が怒った理由はもう一つありました。メフメト3世の時代、大宰相とイスラム長老が対立。大宰相はイエニチェリ、イスラム長老は常備騎兵軍を味方にして武力衝突が起こりました。このとき常備騎兵軍がメフメト3世の廃位を要求。
最終的には反乱は鎮圧されましたが。サフィエ・スルタンは兵たちの反乱はマフムトが先導したとメフメト3世に吹き込み。皇帝は疑心暗鬼になっていました。
こうした理由もあってメフメト3世はマフムトとその側近を処刑してしまいます。
実際にはマフムトとハリメが反乱を煽ったという証拠はありません。でもマフムトの普段の言動がメフメト3世とサフィエ・スルタンを怒らせ。皇帝に疑いをもたれてしまいました。大臣たちはメフメト3世よりもサフィエ・スルタンがマフムトの処刑を強く望んだと証言しています。
マフムトの母は処刑されたと言われていましたが。ハリメは皇子のムスタファが幼く母と離れられないのでエスキサライ(旧宮殿)に移されました。
アフメト1世の時代
1603年。メフメト3世が死去。アフメト1世が即位しました。
兄弟殺しの慣習によりムスタファは殺されるところでしたが。重臣たちが相談してムスタファを活かすことにしました。というのもアフメト1世はまだ13歳。跡継ぎはいません。
アフメト1世が無事成長して子供を残せるかわからなかったので、ムスタファを生かしておくことにしました。メフメト3世が即位したとき19人いた兄弟を処刑したのが人々の反発をうけたことも理由のひとつです。またムスタファは幼い頃から体が弱くてんかん持ちだったので驚異にならないと判断されたという説もあります。
ムスタファは助かりましたが、ハリメから引き離されハレム内の「黄金の鳥籠(カフェス)」とよばれる部屋に幽閉されました。ムスタファの世話は侍女たちが行いました。
ハリメはひとまずはムスタファの命が助かり安心しました。離れて暮らしていますが、時々はムスタファに会いに行くこともできました。
ハリメはアフメト1世の治世中、旧宮殿で暮らしました。息子の人生を心配する必要は一度もなく、娘たちの人生も順調であった。
アフメト1世は即位後。ハリメの娘たちを結婚させました。
1612年。ムスタファは処刑されそうになりましたが、キョセム・スルタンがとりなしてムスタファの処刑は亡くなりました。
母后になる
1617年。アフメト1世が死去。27歳の若さでした。
アフメト1世の子は幼いので、弟のムスタファ1世が即位しました。ハリメはヴァリデスルタン(母后)になりました。
ムスタファ1世は精神的に不安定でした。ハリメが摂政になり、娘婿のカラダウトパシャが補佐して政治が行われました。
ムスタファ1世の支持者は彼の精神的な不安定は監禁のせいであり、人と会い社会に接する機会が増えれば改善するだろうと期待していました。でも精神的な不安定は改善されませんでした。
ムスタファ1世は扱いやすく危険な行動を取ることはありませんでしたが、精神的に不安定なことは誰が見てもわかりました。
1618年。即位して96日でクーデターが起きてムスタファ1世は退位させられました。
ムスタファは再びカフェスに幽閉。ハリメは旧宮殿に送られまいた。しかし今回は以前に旧宮殿にいたときよりも待遇が良かったようです。
アフメト1世とマフフィルズの息子・オスマン2世が即位しました。
オスマン2世の時代
オスマン2世は若いのですが、皇帝の力を取り戻そうと様々な事を行なっていました。軍の綱紀引き締めも行いました。しかしポーランド遠征で失敗。オスマン2世は兵士たちの反感をかってしまいます。イェニチェリが反乱を起こしてしまいます。
イェニチェリの反乱の黒幕はハリメとキョセムという説もありますが。そんなことをしなくても軍は反乱を起こしたでしょう。ただしハリメは皇帝に反感をもつ兵たちに資金援助はしていたようです。
イェニチェリたちは宮殿に突入、監禁されているムスタファ1世を担ぎ出し。旧宮殿にいたハリメを連れてきました。
1622年5月。ムスタファ1世は再び皇帝になりました。
ハリメはイェニチェリたちと相談してカラ・ダヴド・パシャを大宰相にしました。
ハリメとカラ・ダヴド・パシャはオスマン2世の処刑を決定。兵士たちはオスマンは監禁するだけで殺すつもりはありません。前の皇帝の処刑には反対しました。でもハリメとカラ・ダヴド・パシャはオスマン2世が生きていたら危険だとハンダン。カラ・ダヴド・パシャが拷問の末、殺害しました。
前皇帝の殺害は兵士たちにも動揺を与え、ハリメたちは兵士や重臣たちたちの支持を失います。
二度目の母后
アバザの反乱
オスマン2世を支持者していたエルズルムのベイラーベイ(州総督)、アバザ・メフメト・パシャが挙兵。イェニチェリに反発している騎兵隊も彼に味方しました。キョセムも味方していたかもしれません。反乱軍が迫っていると聞いてイスタンブルは混乱しました。
イェニチェリはカラ・ダヴド・パシャに責任を取らせて処刑。イスラム長老とマンケシュ・カラ・アリ・パシャはハリメと交渉。ムスタファ1世の退位を要求しました。ハリメはムスタファ1世の命を助けることを条件に退位を受け入れました。
その後、アバザの反乱は収束。
再び退位
アフメト1世とキョセムの息子・ムラト4世が即位しました。
1623年9月。ハリメと娘は旧宮殿に送られました。ムスタファ1世も一緒に旧宮殿に行ったかもしれません。
ハリメがいつ亡くなったのかはわかりません。
ムスタファ1世は1639年に亡くなりました。
ハリメとムスタファ1世はアヤ・ソフィアに葬られています。
ドラマ
新オスマン帝国外伝キョセム 2015年、トルコ 演:アスリハンギュルブズ
コメント