ハドゥム・スレイマン・パシャはオスマン帝国の大宰相です。
オスマン帝国の海軍司令といえばバルバロスが有名ですが、ハドゥム・スレイマン・パシャも海軍の指揮官として活躍した人物です。
アラビア海からインド洋方面でポルトガルと戦いました。
ハドゥム・スレイマン・パシャについて紹介します。
ハドゥム・スレイマン・パシャの史実
名前:ハドゥム・スレイマン・パシャ(Hadım Süleyman Paşa)
地位:オスマン帝国大宰相
生年:1467年
没年:1547年
父:不明
母:不明
ハドゥム・スレイマンはハンガリー出身。デヴシルメ(徴用)でイスタンブルに来ました。エンデルン国立学校で教育を受けました。ハドゥム・スレイマンは去勢して、アカアラールといわれる宮殿の使用人になりました。アカアラールとは宮殿内の事務、使用人の監督、王室の財産の管理、ハレムの管理などを行う宦官です。「ハドゥム」とは宦官という意味です。スレイマンはイスタンブルに来たあとに付けた名前。本名はわかりません。
ハドゥム・スレイマンは王室の財産を管理する部署に配属されました。その後、オスマン帝国が征服したハンガリーの国庫の管理を任されました。経理の仕事が得意な宦官だったことがわかります。
1520年。スレイマンが即位しました。
1524年。ダマスカス(現在のシリア)の知事になりました。
エジプト州総督になる
エジプト州の総督だったヘイン・アーメド・パシャが反乱を起こして鎮圧されます。反乱が鎮圧されたあと、大宰相イブラヒムの命令でエジプトの知事になりました。
エジプトはセリム1世の時代にオスマン帝国に支配されたばかり。まだエジプト州内にオスマン帝国の支配がいきわたっておらず乱れていました。ハドゥム・スレイマン・パシャは知事をしていた10年間にエジプトにオスマン帝国の支配を行き渡らせ安定した社会にしました。エジプト州からの収入も増やしました。
当時は大航海時代だったのでポルトガル王国がインド洋にも出現。イスラム諸国と問題がおこすようになりました。ハドゥム・スレイマン・パシャはアデン湾(紅海とインド洋の間、ソマリア沖)を守るため、海軍の重要性を皇帝スレイマン1世に訴えました。スレイマン1世は海軍を強化を認め、造船所を建設し、船を作りました。
その後、イランのサファビー朝との戦争が起こります。戦争の費用が必要になったので、船の建造計画は一旦は中断します。
1535年。ハドゥム・スレイマン・パシャはアナトリア総督になりました。
ポルトガルに立ち向かう
しかしポルトガルの圧力は続きます。インド洋周辺のイスラム諸国がポルトガルに圧力をかけられて問題になりました。ポルトガルが各地を占領して現地の住民とトラブルを起こすようになったのです。
1537年。ハドゥム・スレイマン・パシャは再びエジプト総督になります。中断していた船の建造を再開。海軍を強化しました。インドのクジャラートの港町ディーウが占領されました。
クジャラートはオスマン帝国と友好関係にあったイスラム教国家です。オスマン帝国にとっては重要なスパイスの輸入先でした。クジャラート国王バハードゥル・シャーはポルトガルに対抗するためスレイマン1世に艦隊派遣を要請しました。
スレイマン1世はハドゥム・スレイマン・パシャに海軍建設を急がせます。
ところがその後、バハードゥル・シャーは暗殺されました。ポルトガルは否定していますが犯人はポルトガルが有力です。クジャラートではポルトガルに友好的な王が即位しました。
ハドゥム・スレイマン・パシャは建造した船でスエズ海軍を設立。ハドゥム・スレイマン・パシャは海軍本部に任命されました。
1538年6月。ハドゥム・スレイマン・パシャは76隻の船と6千人の兵士をつれて出発。スエズ海軍は8月にイエメンのアデン港に到着しました。
イエメンはエジプトのマルムーク朝の支配下にありました。しかしオスマン帝国はマルムーク朝を滅ぼします。オスマン帝国はマルムーク朝の支配下に会ったイエメンの支配も狙っていました。
オスマン海軍はアデン港を占領。ポルトガルに味方する地元の有力者アデン・エミールを呼び出して処刑しました。ハドゥム・スレイマン・パシャはアデンをオスマン帝国の支配下にしました。
インド・クジャラート遠征
アデン湾からポルトガルの驚異を取り除いた後、ハドゥム・スレイマン・パシャ率いるオスマン海軍はインドのクジャラートに向かいました。
オスマン海軍は途中、嵐にあって船の修理に3週間かかりました。その間、オスマン帝国がやってくると知ったポルトガルはクジャラートのディーウから積荷を持ち出しました。
1538年10月。海軍はディヴ沖に到着。港を包囲しましたが、ポルトガルの衛兵アントニオ・デ・シルバたちが造った要塞を攻め落とすことができません。
ハドゥム・スレイマン・パシャはポルトガル軍相手に苦戦します。他のオスマン領の協力を求めましたが、他の州総督はハドゥム・スレイマン・パシャを助けようとしませんでした。ハドゥム・スレイマン・パシャはアデン・エミールを処刑しました。他の州総督は彼の強硬的なやり方に反感をもっていたと言われます。
しかもオスマン海軍が到着したころにはクジャラートはポルトガルの言いなりになる国になっていました。ハドゥム・スレイマン・パシャはクジャラートからも支援が受けられず、ディーウの占領を断念。インドから撤退しました。
インドから戻る途中。イエメンのザビードに立ち寄り占領。ムスタファ・パシャがイエメン知事になりました。
インド遠征は失敗したものの、イエメンを支配下におきポルトガルが紅海に入るのを防ぐことはできました。
1539年の終わり頃にイスタンブルに戻りました。
大宰相になる
1541年。リュトフィ・パシャの次に大宰相になりました。
イスタンブルでは リュステム・パシャがライバルでしたが、彼より先に大宰相になりました。
スレイマン1世の遠征のときには国の東を守るためトカト(トルコ東部トカト州)で防衛にあたりました。
1544年。スレイマン1世がいる会議の場でエジプトの州総督ディバヌ・ヒュスレフ・パシャと口論になりました。口論が激しくなり短剣で指すのに十分な距離まで近づきました。それを見たスレイマン1世は争いをやめさせふたりとも解任しました。
ディバヌ・ヒュスレフ・パシャは断食して抗議、17日後に死亡しました。
ハドゥム・スレイマン・パシャはマルカラに強制送還されます。
2人の争いはリュステム・パシャが扇動したものだといわれます。
ハドゥム・スレイマン・パシャのあと大宰相になったのはリュステム・パシャでした。
1547年。収容先で死亡しました。
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