フェルナンド2世は、アラゴン国王。カスティーリャのイサベル女王と結婚して、カスティーリャ・アラゴン王国の共同統治者となりました。
イサベルと共にカトリック両王とも呼ばれます。
フェルナンド2世の紹介します。
フェルナンド2世の史実
名前:フェルナンド2世(Fernando II)
地位:アラゴン王国王
称号:カトリック王(Fernando el Católico)
生年:1452年3月10日
没年:1516年6月23日
父:フアン2世(アラゴン王)
母:フアナ・エンリケス
妻:イサベル1世
子供:イサベル、フアン、フアナ、マリア、カタリーナ
日本では室町時代になります。日野富子とほぼ同じ時代の人物です。
1452年。アラゴン王国国王のフアン2世の次男として生まれました。
1461年。9歳のとき。異母兄カルロスが死亡。アラゴンの王太子になりました。フェルナンドは父フアン2世を助け、アラゴン王国とフランスとの戦争にも従軍しました。
1468年。父フアン2世からシチリア国王の位を与えられました。
1468年。カスティーリャ王国の王女イサベルと結婚しました。
1474年。カスティーリャ国王エンリケ4世が死去。
イサベル1世が国王になりました。しかしエンリケ4世の娘フアナ王女が王位を主張。ポルトガル国王アフォンソ5世に助けを求めました。アフォンソ5世はポルトガル軍を率いてカスティーリャに攻め込みました。
フェルナンドは軍を率いてポルトガル軍と戦い、イサベル1世に反対する勢力を討伐します。
アラゴン国王フェルナンド2世誕生
1479年。父フアン2世が死去。あとをついでアラゴン国王になりました。フェルナンド2世とイサベル1世はカスティーリャ・アラゴン連合王国の共同統治者になりました。
カスティーリャ王国とアラゴン王国は法律も予算も別の国でした。国内の政治は別々でしたが、外国に対してはカスティーリャとアラゴンは一体になって行動しました。
カスティーリャとアラゴンをまとめてエスパーニャ(スペイン)と呼びました。この時点ではエスパーニャ(スペイン)は国名ではなく、カスティーリャ人とアラゴン人をまとめて呼ぶときの呼び名として使っていました。
レコンキスタの達成
8世紀ごろイベリア半島はイスラム教徒に征服されました。その後キリスト教徒が領土回復しようと戦いが続いていました。その戦いをレコンキスタといいます。意味は「再征服」です。日本では「領土回復運動」と訳されることもあります。アラゴンもカスティーリャもレコンキスタで誕生した国なので異教徒の討伐には熱心でした。
フェルナンドとイサベルが生きた時代には残るイスラム勢力はイベリア半島南部のナスル朝グラナダ王国だけになっていました。
しかし1482年。グラナダ王国で王位継承をめぐって内乱が起こります。好機と考えたカスティーリャ=アラゴン連合王国はグラナダに攻め込みます。
フェルディナンドはカスティーリャ・アラゴン連合軍を率いて戦場で戦いました。
1492年1月。アルハンブラ宮殿を陥落させ、グラナダ王国を攻め滅ぼしました。この勝利でイベリア半島からイスラム教国がなくなり約800年続いたレコンキスタが達成されます。
1496年。ローマ教皇アレクサンデル6世はこの偉業を褒め称えます。フェルナンド2世とイサベル1世はローマ教皇から「カトリック両王:Reyes Católicos」の称号が与えられました。
フランスとの戦い
第一次イタリア戦争
アラゴンはフランスと争っていましたが、1493年に和睦しました。でもそれは一時的なものでした。1494年にフランス王シャルル8世がナポリ王を継承したと主張。ナポリに攻めてきました。アラゴンは神聖ローマ帝国、ヴェネツィア、ミラノと神聖同盟を結成してフランスと戦います。
フェルナンド2世とイサベル1世はカスティーリャ・アラゴン軍を派遣しましたがフランス軍に敗退。しかし神聖同盟そのものはフランスに勝利。フランスは撤退しました。
1499年。フランスはミラノを征服。フランスのルイ12世はフェルナンド2世にナポリの割譲を提案して味方にします。フェルナンドはフランスの提案を受け入れます。
カスティーリャ・アラゴン連合軍とフランスはナポリを征服。ナポリ王フェデリーコ1世は退位しました。しかしフェルナンド2世はナポリを全て奪うつもりでした。
ゴンサロ将軍率いるカスティーリャ・アラゴン連合軍はフランス軍と戦って勝利します。フランスは撤退してフェルナンド2世はナポリ王も兼ねることになりました。ゴンサロはナポリの総督になりました。
異教徒への迫害
フェルナンド2世は熱熱なキリスト教徒でした。同時に異教徒への激しい迫害を行った人物でした。
1480年。フェルナンド2世は国が異端尋問を行う権利を教皇に要求しました。本来、異端尋問はカトリック教会が行います。しかし地中海のカトリック教国はオスマン帝国におびえていました。当時のアラゴン王国はオスマン帝国に対抗できる数少ない国でした。教皇はアラゴン国王の要求を認めるしかないのです。教皇は仕方なくフェルナンドに異端尋問の権利を認めます。
カスティーリャの異端尋問所は教皇庁から独立し、カスティーリャ王室によって運営されました。
フェルナンド2世とイサベル1世は異端尋問を行い、ユダヤ教徒や改宗者への迫害を行いました。700人が火炙りになり5000人が処罰を受けました。
1492年。カスティーリャとアラゴンのユダヤ教徒に対して、国内に住むことを禁止、国外退去を命令しました。
1502年。国内のイスラム教徒にも改宗か追放かを選ぶように命令。
キリスト教への改宗をもとめ拒否した場合は国外追放にしました。改宗したのは5万人。カスティーリャでは15万人、アラゴンでは3万人のユダヤ教徒が財産を没収され追放されました。ユダヤ教徒、イスラム教徒から没収した財産はカスティーリャ・アラゴン連合の財源となりました。
イサベル女王の死後
1504年。妻のイサベル1世が死去しました。次女フアナが女王になりました。しかしフアナは夫フィリップともにオランダで暮らしていました。女王不在の間はフェルナンド2世は摂政になって国内を治めました。
カスティーリャとアラゴンは国王同士の結婚で結ばれていました。フェルナンド自身はカスティーリャの王ではありません。フェルナンド2世はカスティーリャへの影響力が弱くなってしまいます。
カスティーリャ国内で人気のあったゴンサロに位を与えて総督の座から外しました。ゴンサロは形の上では位は上がりましたが要職に付いていないの影響力がありません。
1505年。貴族フォワ家の娘ジェルメーヌ・ド・フォワと再婚しました。アラゴンを治める世継ぎの誕生を期待してのことだといわれます。
1506年。フアナがカステォーリャに到着。即位式をすませるとフェルナンドはナポリを治めるために向かいます。
フアナの夫フィリップが自分が国王だと振る舞いはじめます。フィリップは疫病で死亡。夫の死でフアナは精神状態が不安定になります。フェルナンド2世は再び摂政になりました。
1511年。フランスとローマ教皇ユリウス2世が対立。フェルナンド2世は教皇に味方して神聖同盟に参加します。
1512年。ナバラ王国を占領してカスティーリャに併合。イベリア半島に残るのはカスティーリャ・アラゴン連合(スペイン)とポルトガルだけになりました。
フアナの後継者を長男カルロスと決めました。
1516年。フェルナンドは死亡しました。
カルロスの時代、カスティーリャとアラゴン統一され、スペイン国王が誕生。カルロス1世が初代スペイン国王になりました。またオーストリアの継承権も手にしたカルロス1世は神聖ローマ帝国皇帝カール5世ともよばれるようになりました。
フェルナンド2世は、戦場での強さと巧みな外交で領土を広げ。イサベル1世とともに後のスペイン王国繁栄の基礎を作りました。
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