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ファトマ・ハトゥン:ムスタファ皇子が最初に愛した女性

オスマン帝国国旗

ファトマ・ハトゥンはオスマン帝国ムスタファ皇子の側女。

ムスタファ皇子が最初に愛した女性といわれます。

ドラマではムスタファと会う前にマヒデブランの侍女として登場し様々な事件に関わりますがそれは架空の話です。しかしムスタファの側女となって息子スレイマンを生んだのは本当のようです。

ファトマ・ハトゥンはどのような人だったのか簡単に紹介します。

目次

ファトマ・ハトゥンの史実

名前:ファトマ(Fatma)
本名:アドリアナ
地位:オスマン帝国側女
生年:1520年
没年:不明
父:不明
母:不明
夫:ムスタファ皇子
子供:
スレイマン皇子(1534~1537年)
オーハン皇子(1535~1552年)?

ファトマはクロアチア生まれ。本名はアドリアナといいます。

ヒュッレムと同じように若い頃に連れ去られて奴隷として売られてきたようです。オスマン帝国のハレムではヨーロッパの女性は人気があったようです。

ハレムに来たときはまだ10歳でした。若かったので最初は侍女として仕えました。

ムスタファがマニサに移動するとムスタファに付いて行きました。ムスタファの最初の側女になったといわれます。

1534年。息子のスレイマン皇子が生まれました。ムスタファにとって初めての子供です。

1520年生まれが本当だとすると14歳で出産したことになります。若い出産です。しかし間違っている可能性もあります。

1535年。一節にはオーハンを生んだともいわれます。でもアフメドと間違われている可能性もあります。可能性としてはファトマが生んだ可能性は低いです。

ファトマはしばらくムスタファ最愛の女性でしたがリュメイサ・スルタンの登場でその地位は危うくなります。

1537年。息子のスレイマン皇子が3歳で亡くなります。アマスヤに葬られます。

その後の行方はよくわかりません。1585年まで生きたともいわれますが、バヤジットの側女にもファトマという女性がいて1585年まで生きているので彼女と勘違いしているようです。

1553年。ムスタファが処刑されるとマヒデブランや他の側女や子どもたちと一緒にブルサに移ります。そのときにいたのかもしれませんしそれまでに亡くなっていたのかもしれません。

ブルサにファトマの墓があるのでムスタファが処刑されるまでは生きていた可能性もあります。

同名の側女が他にもいた

海外の資料を見るとオルハン皇子やミフリマ皇女もファトマの子供だとしている資料もあります。オルハン皇子やミフリマ皇女はバヤジット皇子の子供です。

実はバヤジット皇子の側女にもファトマという女性がいました。資料の中には彼女と勘違いしているものもあるようです。同じような名前が多いのでややこしいですね。

ファトマという名前の女性が多いのは理由があります。

ファーティマは、イスラム教ではムハンマドの娘の名前です。

ムハンマドの娘ファーティマは理想の女性として語り継がれています。そこでイスラム教社会では、様々な言語で「ファーティマ」を意味する名前が使われました。トルコ語のファトマも同じ意味です。

ドラマと歴史の違い

オスマン帝国外伝・愛と欲望のハレムでもファトマ・ハトゥンは登場します。ドラマではすでにフィダンやエフスンがいたのでムスタファにとって最初の女性ではありませんでした。でも、ファトマが最初に無事に子供を生んだ女性になります。

ドラマではスレイマン皇子は赤子のとき死亡してしまいます。歴史上は3歳と早くに亡くなったのですがドラマでは更に短い一生でした。

その後、ファトマは自殺してしまいます。もしかするともう少し長く行きていたのかもしれませんが、その後の記録がありませんので自殺したことにしたのでしょう。ハレムのことはよくわからない部分が多いです。

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