デヴシルメ(devşirme)とはオスマン帝国で採用された徴用制度のこと。
ほぼ強制的に人を連れて行くので税ともいわれました。
キリスト教徒の若い子どもたちがデヴシルメで集められ。イエニチェリ(常備歩兵軍団)や官僚として採用されました。デヴシルメ出身者は法律上は自由な身分ではなく皇帝の下僕。皇帝が扱いやすい駒として扱われました。
デヴシルメで集められた人たちは役人・軍人ともに皇帝に忠実な下僕として働きました。彼らはデヴシルメ出身者で派閥を作り、皇帝の独裁を嫌うトルコ人貴族と対抗しました。
彼らは皇帝の奴隷・下僕と言われながらも国の重要な役職につきました。大宰相や宰相、様々な組織のトップもデヴシルメ出身者が多いのです。オスマン帝国は皇帝の下僕によって動かされていたのでした。
他の国では見られないとても不思議な制度。
デヴシルメについて紹介します。
多くの軍人役人を出したデヴシルメとは
オスマン帝国ではイスラム法が適用されるので、トルコ人貴族やトルコ人の平民(自由人)は皇帝であっても勝手に処罰できません。裁判にかけてイスラム法で裁かないといけません。でもデヴシルメ出身者は法律上は奴隷なのでイスラム法は適用されず。皇帝の意志で処刑したり財産を没収できました。
デヴシルメで集められるのはキリスト教徒です。イスラムの制度ではイスラム教徒を奴隷にするのは禁止されているからです。
記録に残っているかぎりではデヴシルメは1438年が最初。でもそれ以前から始まっていたようです。
デヴシルメはオスマン国の初期のころからあったクル(奴隷)制度がもとになっています。オスマン国はイスラム諸国にあった奴隷制度を学んで採用しました。クルは戦争捕虜、人質、囚人、または奴隷商人から買った人たちでした。
14世紀。3代皇帝ムラト1世はトルコ人貴族の影響を抑えるため。正規軍とは別に皇帝直属の軍隊を作ることにしました。キリスト教国との戦争で得た捕虜を皇帝の奴隷にして、皇帝の親衛隊を作りました。
皇帝に直接仕えたエリート部隊はカプクル・オカグと呼ばれました。カプクル・オカグは騎兵と歩兵の2つに分かれます。
騎兵隊は一般にカプクル・スィパーヒ(常備騎兵軍団)。歩兵は「新軍団」を意味するイェニチェリ(常備歩兵軍団) とよばれます。
最初は親衛隊の兵士は戦争捕虜から選ばれました。後にデヴシルメの制度をつくられました。デヴシルメで徴兵された兵士はカプクル・スィパーヒやイエニチェリに配属されました。
りバルカン半島の農村部のキリスト教徒の子供たちを徴兵して教育。宮殿、書記官、イスラム教の聖職者、軍隊の4つの部門に配置しました。
デヴシルメされる条件
デヴシルメで連れて行かれるのはバルカン半島のオスマン帝国領で暮らすキリスト教徒。イスラム教徒を連れて行くのは禁止されています。
デヴシルメは4~5年に一度行われます。
対象年齢は8歳から10歳が理想とされますが。18前後、遅くても20歳で徴用されることもあります。8歳未満の少年の採用は禁止されていました。
とくに見た目がよく健康で利発な子供が選ばれました。一つの家から一人。イスラム教、ユダヤ教徒は除外。既婚者は除外。産業の保護のために都市部の商工業者も除外。農民、畜産業、漁業を職業にしている人の子供が多くなります。
デヴシルメされる親の反応
子供を取られるのを反対する親たち
バルカン半島のキリスト教徒の間ではデヴシルメは「血税」と呼ばれ評判はよくありません。子供を連れて行かれてしまうのですから当たり前です。
1565年にはアルバニアとエピルスでデヴシルメに反対して暴動がありました。
子供を連れて行かないようにするため役人に賄賂をおくることもありました。イスラム教徒は連れていけないので、親と子供の両方がイスラム教に改宗することもありました。
出世のチャンスと考える人たち
逆の人たちもいます。デヴシルメを出世の手段、子供を仕事につかせるための手段と考える人もいいました。子供を志願させたり、役人に賄賂を渡して子供を連れて行ってもらうこともありました。
イスラム教徒でもデヴシルメを希望する人たち
またデヴシルメされるのはキリスト教徒ですが。中にはイスラム教徒もデヴシルメで子供を連れて行ってもらおうと役人に賄賂を渡す人もいました。
子供を取られると考えるか、出世・就職の方法と受け止めるかで親の対応は違っていました。
デヴシルメはイスラム教が支配するオスマン帝国でキリスト教徒が出世する唯一の手段になっていました。
デヴシルメは確かにひどい制度なのですが。同じ時期のキリスト教国はどうだったかというと。イスラム教徒や異教徒を差別したり迫害していました。ヨーロッパの身分制度では異教徒が公職に就くのも難しく、役人や宰相にはなれません。
オスマン帝国がデヴシルメをしていたころ、ヨーロッパでは大航海時代をむかえていました。キリスト教国が征服したアメリカ大陸やアジア・アフリカの現地人にしたことに比べればオスマン帝国のしたことはまだマシです。
デヴシルメされるとどうなる?
バルカン半島の各地で集められた少年たちはイスタンブルに集められ出身地、親子関係、生年月日、および容貌が記録されました。
その様子を描いた細密画(ミニアチュール)がこれです。
wikipedia By Ali Amir Beg (1558) Istanbul, Topkapi Palace Museum
描かれたのは1558年なのでスレイマン1世晩年の時代。手前にいる赤い服を着た少年たちがデヴシルメで集められた人。左に役人がいて登録をシています。右には見学する市民。人集めの業者に金を渡すイェニチェリ将校。上には抗議している母親らしき人物が描かれています。この絵を描いたアリもデヴシルメ出身の画家と思われます。
集められた少年たちはイスラム教に改宗させられます。その後、トルコ語を学ぶために有料で農家に預けられました。
戻ってきた少年たちは予備役に登録されイェニチェリ(常備歩兵軍団)になります。
優秀な人はエンデルン(トプカプ宮殿の中にある学校)に送られ勉強します。卒業後彼らはカプクル(皇帝の奴隷)と呼ばれ、宮廷で働いたり、役人になりました。
15世紀以降、カプクルの中から宰相や大宰相が誕生します。
デヴシルメ出身者に支配されるオスマン帝国
オスマン帝国がバルカン半島を征服して間もない15世紀ころまでは、カプクルはバルカン半島の貴族の子弟でした。現地の有力者はオスマン帝国に人質として子供を差し出していました。オスマン帝国は彼らを皇帝の奴隷として採用。教育して皇帝の小姓・側近、役人にしていました。
7代メフメト2世ごろの大宰相には元ヨーロッパ貴族の子弟が多くいました。
16世紀になるとカプクルにはデヴシルメで集められた農村出身者が増えます。
9代セリム1世、10代スレイマン1世のころになると大宰相はほぼデヴシルメでカプクルになった人になります。
スレイマン1世が任命した大宰相は全員デヴシルメ出身。イブラヒム、リュステム、ソコルルもデヴシルメ出身者です。
ソコルルはセリム2世、アフメト3世の初期も大宰相を務めました。アフメト3世は頻繁に大宰相を交代させましたが、デヴシルメ出身者です。大宰相だけでなく宰相、財務大臣、その他の役人、地位の高いエリート軍人など。オスマン帝国の支配者層の多くがデヴシルメ出身者になりました。
オスマン帝国はトルコ人、イスラム教徒の国といわれます。確かに皇族はイスラム教徒のトルコ人。都市の住民も多くがトルコ人です。でも民衆を支配している高官の多くがデヴシルメで集められた皇帝の下僕たち(カプクル)でした。
15・16世紀のオスマン帝国を動かしていたのはデヴシルメ出身者でした。
カプクルは皇帝の奴隷・下僕の意味です。確かに自由はありません。
ムスリムの一般人(自由人)はイスラム法で守られています。皇帝と言えども理由がなくては処罰できません。
でもカプクルは皇帝の考え一つで命がなくなることもあります。大宰相イブラヒムの処刑理由がよくわからないのもそのため。不手際があるとそれまで築いてきた地位が壊れてしまう危うさもあります。
でも彼らが下僕になるのは皇帝(皇族)にだけ。パシャやベイ、アガクラスのカプクルは一般市民よりも地位は上です。財力もあります。
デヴシルメの衰退と廃止の理由
デヴシルメは16世紀になると回数が減り。17世紀にはほとんど行われなくなり。18世紀には正式に廃止になります。
カプクルと呼ばれる人たちは相変わらずいるのですが。カプクルはデヴシルメ出身者ではなくなり。ムスリムが多くなります。
ムスリムがカプクルになる場合。どのような基準があるのかというと、
採用基準はありません。
有力者が子弟や知人を紹介したり、コネがない人は賄賂で有力者に取り入ってカプクルにしてもらいます。
彼らはカプクル(皇帝の下僕)とはいっても、ムスリムです。デヴシルメ出身者のように皇帝の気まぐれて処刑はできません。イスラム法で裁かないといけません。
カプクルは皇帝の下僕の意味ではなくなり、身分・地位の名前になります。
ムスリムのカプクルによって皇帝の権限は制限され。役人が国を支配する時代になります。
デヴシルメがあった時代、皇帝を支える有能な宰相たちが何人もいました。大宰相イブラヒムやソコルル。名宰相と呼ばれる人たちはデヴシルメ出身が多いです。リュステムも市民からの評判は悪いですが、財政や外交交渉では成果を出しています。かれらは皇帝の寵愛もありましたが才能のある人達でした。
でもデヴシルメ廃止後。コネや賄賂でカプクルになった人が増えると、オスマン帝国の官僚は堕落腐敗していきます。
また。軍でもデヴシルメが必要なくなった事情がありました。
16世紀から17世紀。オスマン帝国はヨーロッパ諸国との戦いに備えて軍を近代化。騎兵を減らして鉄砲や大砲装備の歩兵(イエニチェリ)を増やしました。するとデヴシルメだけでは数が足りなくなります。そこでムスリムからも採用することにしました。
またムスリムもイエニチェリに入隊希望者が増えました。
というのもイエニチェリには特典があったのです。給料は国から支払われ、税が免除され、様々な特典がついていました。その特典目当てにイエニチェリ希望者が増えたのです。
イエニチェリは皇帝の下僕といいつつも。皇帝を守る親衛隊が始まり。そのため立場は優雨遇されていました。イエニチェリは特権階級だったのです。
「改宗者だけ特典が付くのはズルい」というわけで。ムスリムからも入隊希望者が増えました。デヴシルメされた人にはそれなりの事情があるのですが。損得勘定の前には他人の事情はどうでもよくなります。
1594年にはムスリムの入隊が認められ。1648年までにはデヴシルメは行われなくなりました。国は1703年にはデヴシルメを再開しようとしましたが、入隊希望者のムスリムに反対されて断念。アフメト3世の時代にデヴシルメは正式に廃止になりました。
でも問題がありました。特典目当てに入隊した人も多かったので戦争になっても出兵しない人が急増。書類上はイエニチェリになっても実際には軍にはいない幽霊イエニチェリまで出現しました。
こうして15・16世紀にヨーロッパ諸国から恐れられた精鋭部隊イエニチェリは堕落。オスマン帝国もヨーロッパ諸国との戦いに負けるようになります。
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