ダルタニャン(ダルタニアンとも書きます)は、アレクサンドル・デュマの書いた小説「ダルタニアン物語、三銃士)の主人公。
架空の人物だと思われがちですが、ダルタニアンにはモデルになった人物がいます。
ダルタニアンのモデルになったのはシャルル・ド・バツ=カステルモールというフランスの軍人。シャルル自身も「ダルタニアン」と名乗りました。
史実のダルタニアンとはどんな人だったのでしょうか。
シャルル・ダルタニャンとは
名 前:シャルル・ド・バツ=カステルモール(Charles de Batz-Castelmore)
通 称:ダルタニヤン(D’Artagnan)
生 年:1615年または1611年
没 年:年月日(1673年6月25日)
父:バートランド・ド・バッツ卿
母:
妻:ジャン・エレノ・デ・ダマス
子:ルイ(兄)、ルイ(弟)
ダルタニャンのモデルになったシャルル・ド・バツ=カステルモールは、南西フランス・ガスコーニュのカステルモール城で産まれました。次男か四男だったといわれます。
父はバートランド・ド・バッツ卿。裕福な商人アルノー・デ・バッツの息子でカステルモール城を購入しました。
1630年ごろ十代半ばでパリに上京しました。長男ではないので家を継ぐことができないからです。母型の叔父Henri de Montesquiou d’Artagnan(アンリ・ド・モンテスキュ・ダルタニャン)のつてを頼って銃士隊に入隊しました。叔父の友人の助けがあったともいわれます。叔父のダルタニャン家は軍人だったようです。
シャルルは叔父の姓をもらってシャルル・ダルタニャンを名乗ります。
1633年の銃士隊の記録には名前があるので、このころには銃士隊の一員になっていたようです。
この間にフランス・スペイン戦争に従軍しました。
1643年。ルイ13世が死去。ルイ14世が5歳で即位しました。ジュール・マザランが宰相となりました。
1646ごろまでに銃士隊は解散します。ダルタニャンはマザラン枢機卿に仕えました。
1646年。貴族が反乱を起こしました。フロンドの乱です。
ダルタニャンはジュール・マザラン枢機卿に仕えスパイのような仕事をしていました。
小説ではダルタニャンはマザラン枢機卿とは仲はあまりよくありませんが、実際には親しかったようです。
1552年。衛兵隊の隊長に就任。各地の戦いに参加します。
1656年。マザラン枢機卿の後ろ盾もあり近衛歩兵連隊の隊長代理になりました。
1657年。ルイ14世の時代に銃士隊が再結成されます。
1658年。銃士隊の隊長代理補になりました。銃士隊の名目上の隊長は国王。隊長代理が部隊を率います。このとき隊長代理をしていたマザランの甥はイタリアで暮らすことが多く、パリにいませんでした。つまり事実上はダルタニヤンが隊長でした。
1659年。ジャン・エレノ・デ・ダマスと結婚。1660年と1661年にそれぞれ息子が誕生しました。しかしダルタニャンは戦場に出ることが多く夫婦生活はうまくいかなかったようです。2人は別居状態になりました。
1661年。大蔵卿ニコラ・フーケを逮捕しました。フーケは国の財源を管理する大蔵卿としてルイ14世やマザラン枢機卿よりも大きな力を持ち、膨大な財産を不正に蓄えていました。そこでルイ14世はニコラを逮捕することにしたのです。フーケの裁判が終わるまでフーケの警護もしました。
1664年。ニコラを護送中に道端にニコラの妻子を見つけました。ダルタニャンは馬車を止めてはいけないという命令を受けていましたが、馬車をゆっくり走らせてニコラが妻子と会えるようにしました。
1667年。銃士隊隊長代理になりました。
1670年。リールの知事になりました。しかしダルタニャンは知事としては不評でした。彼は軍に戻ることを希望しました。
1673年。仏蘭戦争に従軍。マーストリヒト包囲戦で頭に銃弾を受けて戦死しました。
歴史上のダルタニャンは小説のように華々しい活躍をしたわけではありません。でも軍人としてフランス国王に仕え戦場で命を落としました。
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