カリーリョ大司教(Carrillo)はカスティーリャ王国の政治家でカトリックの大司教です。
ドラマ「イサベル・波乱のスペイン女王のヒロイン」 でも国王エンリケ4世と対立する勢力の中心人物として描かれました。
フアン2世、エンリケ4世、イサベル1世の時代に影響力の大きかった大司教です。
エンリケ4世の側近でしたが、甥のフアン・パチェコとともにエンリケ4世に反乱を起こします。
イサベル1世とフェルナンドの結婚を勧めたのもカリーリョでした。しかしイサベル達はカリーリョの言うことを効かなくなり対立します。
カリーリョ大司教について紹介します。
カリーリョ大司教の史実
名前:アルフォンソ・カリーリョ・デ・アクーニャ(Alfonso Carrillo deAcuña )
地位:トレド大司教
生年:1451年4月22日
没年:1504年11月26日
父:ロペ・バスケス・デ・アクーニャ
母:テレサ・カリロ・デ・アルボルノス
日本では室町時代。日野富子(1440~1496年)とほぼ同じ時代の人です。
おいたち
カリーリョは1410年カラスコサデルカンポ(スペイン中部の町)で生まれました。
父ロペ・バスケスはメスタ会議の首領でした。メスタ会議とはスペインの牧羊業者が作る組合(ギルド)です。当時のスペインでは牧羊が盛んでした。祖先はポルトガルの貴族でした。
母テレサの父は司教でした。カリーリョは11歳のとき叔父の枢機卿アロンソ・デ・カリロの弟子になり叔父の教育を受けて育ちました。
1433年。カスティーリャの外交官になって外国との交渉を行いました。
1434年。叔父のアロンソの死亡後はローマ教皇エウゲニウス4世によって高位の聖職者になりました。
1436~1446。シギェンザ司教区の司教になりました。
1440年教皇フェリクス5世から枢機卿に任命されました。ところがフェリクス5世はエウゲニウス4世と対立して教皇を名のっている人物です。カリーリョはフェリクス5世には正当性がないと考えて辞退しました。
1446年。トレド大司教区の大司教になりました。カスティーリャの司教なかで最高の地位になりました。
その後、カステーリャ王国のフアン2世の宮廷に仕えました。
1453年。カスティーリャで最も力の会った貴族アルバロ・デ・ルナが失脚して処刑されると、宮廷で大きな影響力をもちました。
エンリケ4世への反乱
カリーリョは甥のフアン・パチェコとともにエンリケ4世の側近でした。しかしカリーリョたちの力が大きくなるのを嫌がったエンリケ4世がベルトランたち新しい家臣を重用するようになります。
自分たちの力が衰えるのを不満に思ったカリーリョたちは王に不満を持つ貴族ともに反乱をおこします。アルフォンソ王子を王位継承者にすることをエンリケ4世に認めさせます。さらにアビラの街で儀式を行いアルフォンソ王子を王にすると発表しました。
エンリケ派とアルフォンソ派で戦いが始まりカスティーリャは内乱になりました。
1468年。アルフォンソが死亡すると、姉のイサベラをたててエンリケ4世と和平交渉します。
エンリケ4世との交渉でもカリーリョが関わっていました。エンリケ4世と王妃フアナの結婚は無効、2人の間に生まれたフアナ王女には王位継承権がない。イサベラに王位継承権があることを認めさせました。
イサベラの結婚
イサベラとアラゴン国王フェルナンドとの結婚を勧めたのもカリーリョです。
1469年。イサベラはフェルナンドと結婚するため、オカーニャの町を出発。カリーリョの兵に守られてバヤドリッドに向かいました。
1469年10月18日。イサベラとフェルナンドは結婚契約に署名しました。カリーリョは2人の結婚式に立ち会いました。カリーリョは2人の結婚を認める教皇の勅書も偽造して結婚は正当なものだとしました。正式な勅書は1471年にシクストゥス4世から出ました。
カトリック両王との対立
カリーリョはイサベルが言うことを聞くと思っていました。ところがフェルナンドと結婚したイサベルはしだいにカリーリョのアドバイスに従わなくなりました。カリーリョは口うるさいのため、20歳と若いフェルナンドを怒らせました。
1470年。カリーリョは2人のもとを離れ自分の大司教区に戻ります。
1473年。ロドリゴ・ディアス・メンドーサが枢機卿になりカスティーリャで最も位の高い聖職者になりました。カリーリョは自分が無視されたと感じました。
1474年。エンリケ4世が死去。イサベル1世が即位しました。
しかしイサベル1世と王位を主張するフアン王女との間で争いが起こります。カリーリョはフアン王女の味方になりました。
1478年。フアナ王女を支持するポルトガル軍が撤退して内乱は終了。カリーリョは抵抗をやめてイサベル1世に許しを求めました。イサベル1世はカリーリョを許します。
1482年。自分の司教区で死去。
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