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チャーナキヤ(カウティリヤ)古代インドを統一に導いた宰相

チャーナキヤは古代インドの宰相であり軍師。

カウティリヤともいいます。

インドをほぼ統一してマウリア王朝を建国したチャンドラグプタ王の軍師を育て挙兵に協力した軍師のような人です。マウリア王朝建国後は王を支え宰相のような仕事をしていました。高い知能を持ち軍事・政治・経済に詳しく「実利論」という本を書いたと言われます。

カウティリヤは実利論の著者の名前。チャーナキヤはマウリア王朝の宰相。この2人は同一人物と考えられているのでチャーナキヤの別名がカウティリヤといわれます(別人だと考える研究者もいます)。

史実のチャーナキヤはどんな人物だったのか紹介します。

目次

チャーナキヤ(カウティリヤ)の史実

いつの時代の人?

名称:チャーナキャ(Cāṇakya)
別名:カウティリヤ(Kautilya)

生年:不明
没年:紀元前283年

国:不明(タキシラ?)→ マウリア朝
地位:マウリア朝宰相

日本では弥生時代になります。

チャーナキヤはチャンドラグプタのインド統一を支えた人物です。

でもチャーナキヤがチャンドラグプタに出会うまでの前半生は様々な説があります。

仏教版 チャーナキヤ

スリランカに伝わるパーリ語の仏教年代記にチャーナキヤととチャンドラグプタの話が記録されています。

長いので要点だけ書きます。

チャーナキヤはタキシラのバラモン(地位の高い神官)でした。大学の教師だったと言われます。当時のバラモンは高い知識をもっているので人々に学問を教えることもあったのです。

チャーナキヤの前歯は折れて足は曲がっていました。そのため世間から「醜い」といわれていました。

チャーナキヤの歯は「王になる歯」といわれていました。母は将来王になったら傲慢になるのではないかと心配しました。そこでチャーナキヤは母を安心させるために歯を折りました。

あるときチャーナキヤはナンダ王国の国王ダナ・ナンダの式典に出席しました。ところがダナ・ナンダ王はチャーナキヤの醜い外見が嫌で式典から追い出すように命令しました。チャーナキヤは変装して逃げました。そしてチャーナキヤはナンダ王を倒すと誓います。

その後、チャーナキヤはダナナンダ王の代わりになる王を探しました。そしてまだ子供だったチャンドラグプタと出会います。チャンドラグプタが将来大物になると思ったチャーナキヤは引き取って育てました。

チャンドラグプタの挙兵に協力

チャーナキヤはチャンドラグプタをタキシラに連れて帰りヴェーダ、武術、法律、その他の経典などを教えました。チャーナキアは採掘した金(錬金術で金貨を作ったという話もあります)で兵士を雇いチャンドラグプタをリーダーにしました。

紀元前4世紀末にチャンドラグプタはインダス川流域のパンジャーブ地方で挙兵しました。最初は小さな傭兵集団のようなものだったともいわれます。

しかしいきなりナンダ国に戦いを挑んだチャンドラグプタの率いる軍は敗退。チャンドラグプタとチャーナキヤは森に隠れて逃げました。

チャーナキヤとチャンドラグプタは間違いに気が付きました。もう一度軍隊を作ると、周辺の村々を征服していきました。そして十分力をつけたところでナンダ国の首都パタリプトラを征服。ダナ・ナンダ王を処刑しました。

チャンドラグプタは王になりました。

仏教版ではその後のチャーナキヤとチャンドラグプタのことはあまり書かれていません。チャンドラグプタは晩年ジャイナ教を保護したので仏教勢力からは快く思われていなかったからといわれます。

ジャイナ教版

ジャイナ教のシュヴェーターンバラ派の文献にチャーナキヤとチャンドラグプタの話が出てきます。

チャーナキヤはゴッラ・ヴィシャヤ地域のチャナカ村の出身。ゴッラ・ヴィシャヤ地域が現在のどこになるのは不明ですが。南インドのドラヴィダ人の村だという説があります。僧侶によるとチャーナキヤの歯は将来王になる歯でした。父は息子が将来傲慢になるのを望まなかったので、チャーナキヤの歯を折りました。

チャーナキヤは成長してシュラーヴァカ(修行僧)になりました。バラモンの娘と結婚しました。妻の親戚は貧しい男と結婚したと嘲りました。

あるときチャーナキヤはナンダ王国の都パタリプトラを訪れました。バラモンに寛大といわれるダナナンダ王に寄付を求めるためです。チャーナキヤは王を待っている間、王の椅子に座りました。召使いたちは玉座にいるチャーナキヤを見つけると玉座から追い出しました。追い出されたチャーナキヤは「王を倒す」と違いました。

そしてナンダ王に代わって王になる人物を探しました。

チャーナキヤがチャンドラグプタと出会う場面は仏教版と同じ。

チャンドラグプタを引き取ったチャーナキヤは彼を教え。錬金術で作った金を使って軍隊を作ります。

チャンドラグプタはナンダ国に戦いを挑みますが敗北します。逃げ延びた2人は再び軍を作ると、考えを改めます。

山岳地帯にあるヒマヴァトクタの王パルヴァタカと同盟を結び、ナンダ国の半分を与えると約束しました。

パルヴァタカの協力を得たチャーナキヤとチャンドラグプタは、ナンダ国の周辺から征服をはじめました。首都以外のすべての町を整復すると、最後に首都パタリプトラを包囲。奇襲攻撃をかけて首都を占領しました。王を捕獲すると、持てるだけの宝を持って逃げることを許可しました。ところが王の娘はチャンドラグプタと恋におち結婚しました。

王とその家族が去った後、チャンドラグプタは王になりました。

一方、同盟者のパルヴァタカはヴィシャ・カンヤス(毒娘)と恋仲になりました。チャーナキヤは2人の結婚を認めました。ところがヴィシャ・カンヤスに触れたパルヴァタカは毒にあたって死亡してしまいます。

こうしてナンダ国の領土はすべてチャンドラグプタのものになりました。

ジャイナ教版ではその後も話は続き。チャンドラグプタのあとビンドサラが王になり、チャーナキヤは新しい王に仕えました。

この話に出てくる山岳地帯の王パルヴァタカがギリシャの記録にあるアレクサンドロス3世と戦ったポロス王ではないかという説もあります。

もしそうだとすると、チャンドラグプタはポロスと同盟していたことになります。

他にもいくつかの説があります。チャーナキアは宗教関係者か賢者である。ダナナンダ王に対して腹を立て、王の打倒を目指し新しい王になる人物を探しだした。という大まかなストーリーは同じです。

少なくともアレキサンドロス3世のインド遠征(紀元前327~325年)よりも後です。

紀元前322年ごろ。チャンドラグプタの軍はチャナナキアの助言をうけて

紀元前317年ごろ。ナンダ王国の首都パタリプトラを征服しました。

ダナナンダ王は追放されたとも処刑されたともいわれます。

チャンドラグプタは自分の王国を作りました。

チャーナキヤは「チャナキャニティ」という格言集を書きました。最も有名な著作は「実利論(アルチャシャストラ)」です。

実利論(アルチャシャストラ)

カウティリヤが書いたとされる君主のための教科書。

実際にはオリジナルが完成した後、何度か追加や改訂が行われているため一人の人物が作ったものではありませんが。オリジナルは紀元前2~3世紀ごろに完成したといわれます。

その内容は古代に作られたとは思えないほど実用的な内容です。

単なる合理主義者が書いた解説書ではなく、インド哲学の考え方が元になっています。人々の幸福とは何かを考え、幸福のために国がするべきことを解説しています。

王の役目、大臣や官僚、評議会、軍隊、軍の指揮官、会計係、工房など。様々な役割を解説。そして、法律や経済の重要性、貧困の問題、法定制度や刑事罰・民事罰、結婚制度、自然保護、鉱山開発、工場、その監督者の役目、税金、様々な規制、奨学金、諜報活動、プロパガンダ、戦争についてなど、非常に広い範囲のことが書かれています。

項目だけを見れば現代の政治に関わる者にも通用する教科書のようです。

実利論(アルチャシャストラ)を書いた人物はかなりの知識をもつのは間違いありません。そのためカウティリヤ(チャーナキヤ)はインドでは偉大な人物といわれています。

 

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