バヤジト皇子はオスマン帝国第14代皇帝アフメト1世の息子。
母は不明。異母兄にオスマン2世、ムラト4世がいます。
ムラト4世の即位後。皇帝の命令で処刑されました。
バヤジト皇子といえば第10代皇帝 スレイマン1世の息子が有名です。でもアフメト1世の息子のバヤジト皇子も悲劇的な生涯をおくりました。
トルコドラマ「新オスマン帝国外伝・影の女帝キョセム、シーズン1・2」でも登場。アフメト皇帝と側女ギュルバハルの息子の設定になっています。
バヤジト皇子はどのような人物だったのかご紹介します。
メフメト皇子の史実
名前:シェフザーデ・バヤジト(Şehzade Bayezid)
国:オスマン帝国
地位:皇子
生年:1612年12月1日
没年:1635年7月27日
享年:22歳
父:アフメト1世
母:不明
バヤジト皇子の生涯
バヤジト皇子はアフメト1世の治世の1612年12月1日に生まれました。
異母兄のムラト4世(母キョセム)より数ヶ月若い(ムラト4世は7月27日生まれ)です。
父は14代皇帝 アフメト1世
母はわかりません。
マフフィルーゼ・ハトゥンではないかという説もありますが、名前の知られていない側女だったとも言われます。
ヨーロッパ大使クリストフォロ・ヴァリエの報告によれば、誕生時には宮殿で祝賀式典が行われたといいいます。
1617年11月22日。5歳のとき。父のアフメト1世が死去。
叔父のスルタン・ムスタファ1世と異母兄のオスマン2世の治世では、異母兄のメフメト、ムラト、セリム、スレイマン、カスム、イブラヒムとともにカフェス(鳥籠)とよばれる幽閉用の部屋で暮らしました。
オスマン2世の時代。異母兄メフメトはオスマン2世の命令で処刑され、その1年後にイェニチェリが反乱を起こしてオスマン2世は殺害されました。
その間、バヤジトたちはカフェスにいたようです。
その後、叔父ムスタファ1世が即位。1年3ヶ月後に退位した後。
1623年9月10日 。バヤズィッドの異母弟ムラト4世が即位しました。ムラトは幼かったので母キョセムが摂政母后になって政治を行っていました。
1232年ごろからムラト4世が中心になって政治を行いました。
わかいころのバヤジトはムラトたち兄弟とも仲が良かったようです。ムラトがバヤジトを連れて街に出かけることもあったようです。
でも母后や周囲の者たちの影響でしだいに疎遠になってしまいます。
またオスマン2世の時代にはバヤジトはスレイマン皇子(母はキョセム)との仲が悪くなったともいいます。カフェスで暮らしている間に険悪になってしまったのかも知れません。
バヤジトの最期
ムラト4世が即位してまもなく1923年からサファビー朝イランとの戦争が始まりバグダートがイランに占領されました。
キョセムが摂政している間はイランとの戦いで目立った成果は出せていません。
ムラト4世が自分で政治を行うようになってしばらくするとイラン遠征を計画。
1635年。自ら遠征を行いました。3ヶ月の長い進軍でしたがその間軍の規律は守られました。ムラトは法律や厳しい処罰を使って風紀を正し、秩序ある社会に戻そうとしました。その成果が出ているようです。
ところが遠征中のムラト4世のもとにイェニチェリが皇子を担いで反乱を起こそうとしているという情報が入りました。ムラト4世はトプカプ宮殿にいたバヤジト皇子とスレイマン皇子の処刑を命令。
7月27日。トプカプ宮殿にてバヤジト皇子とスレイマン皇子は絞殺されました。
皇子の処刑にイスラム法学者やハレムの妃や側女たちは怒りました。彼女たち正義の塔に登り、見張りの兵士や皇子の遺体を運ぶ死刑執行人に石を投げたほどでした。
奇しくもこの日はムラト4世の誕生日でした。ムラト4世率いるオスマン軍はレヴァンに到着。28日にはレヴァンを包囲して陥落させました。
バヤジト皇子はスルタン・アフメト・モスクのアフメド1世廟に埋葬されました。
ドラマのバヤジト皇子
新オスマン帝国外伝・影の女帝キョセム
シーズン1 2016年、トルコ 演:ベルク・パミール(Berk Pamir)
シーズン2 2016年、トルコ 演:イギット・ウチャン(Yiğit Uçan)
ドラマでは母は皇帝アフメトの側女ギュルバハル。バヤジト誕生後は皇帝妃と呼ばれますが、とてもキョセムに対抗できる力はなく。弱々しい存在として描かれます。
バヤジトと他の兄弟は仲がよく、よく一緒に幽閉されていました。
シーズン2ではギュルバハルが息子のバヤジトを皇帝にしようと暗躍。ムラト4世にばれてギュルバハルは追放されます。その後はバヤジトはキョセムの管理下で暮らしますが。やがて他の兄弟との関係も悪化していきます。
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