バルバロス・ハイレッディン・パシャはオスマン帝国の海軍提督です。ヨーロッパ諸国からは海賊バルバロスとして恐れられました。
本名のフズルで呼ばれるときもあります。
トルコではバルバロス・ハイレッディン・パシャ
ヨーロッパではハイレッディン・バルバロッサとも呼ばれます。
バルバロスはキリスト教国の船を襲い略奪していました。しかしこれはオスマン帝国の許可を得て行っていたものでした。当時のヨーロッパでは敵対国の海上輸送にダメージを与えるため敵国の船を襲うことは認められていたのです。
後に正式にオスマン帝国の海軍提督になりました。
バルバロス・ハイレッディン・パシャとはどんな人だったのでしょうか。
バルバロス・ヘイレッディン・パシャ
名 前:フズル・レイス(Hizir Reis)
別名:ハイレッディン(Hayreddin)
通称:バルバロス・ハイレッディン
地位:オスマン帝国海軍提督
生 年:1475年
没 年:1546年
父:ヤクップ・アーガー(Yakup Aga)
母:カテリーナ
兄弟:イスハーク、ウルージ、イリヤス
おいたち
バルバロス・ハイレッディンはエーゲ海のレスボス島の出身。
父ヤクップはトルコ系かアルバニア系の民族。オスマン帝国のスィパーヒー(騎兵)でした。ヤクップ・アーガーと呼ばれます。アーガーは村長などの地位のある民間人や将校に与えられる称号。マスターと似たような意味です。やクップはオスマン帝国のレスボス島の占領に参加したあと、島のアーガーになりました。ヤクップは島の司祭の未亡人カテリーナと結婚。4男2女をもうけます。
4人の息子の3番めがフズール。後にハイレッディンと名乗ります。
オスマン帝国公認の私掠船
4人の兄弟は全員が船乗りになりました。最初は船で商売をしていました。
しかしフズル兄弟はオスマン帝国から私掠船(しりゃくせん)の許可をもらいます。私掠船とはスペインが始めた制度でイギリス、フランス、オランダなどヨーロッパ諸国やオスマン帝国も行っていました。大航海時代の海軍は、敵国の海上交通を破壊するために敵国の船を襲って破壊したり積荷や人を略奪していました。しかし海は広いため海軍の船だけでは足りないこともあります。その場合は民間の船に許可を出して略奪行為を行わせました。それが私掠船です。国家公認の海賊と呼ばれることもあります。
フズール兄弟はロードス島騎士団の船を襲いました。ロードス島騎士団もイスラム教国の船を襲っていたのでお互いに海賊行為をしていたことになります。
4人の兄弟はそれぞれに私掠船で活動しました。末弟のイリヤスがロードス島騎士団との戦いで戦死しました。
次兄ウルージがオスマン帝国皇子コルクトから18隻の船を与えられロードス島騎士団を攻撃。その後も規模を拡大して活動しました。
兄ウルージとともにキリスト教国相手に活動
1503年。兄ウルージは拠点をジェルバ島に移しました。フズールはウルージに合流、ともに活動を行います。
ウルージは1504~1510年の間にスペインのイスラム教徒をアフリカ大陸に運ぶ活動で活躍しました。イベリア半島(スペイン・ポルトガル)には多くのイスラム教徒がいました。スペインはレコンキスタ(再征服)でイスラム教徒をイベリア半島から追い出そうとしている時機でした。そこでイスラム教国はイスラム教徒がアフリカ大陸側に渡るのを助けているのです。
ウルージはヨーロッパではババ・ウルージ(Baba Oruç)と呼ばれその名が知れ渡るようなります。
その後もスペインやイタリア相手に戦いを挑みます。この時代は地中海周辺のイスラム教国とキリスト教国が領土を奪い合っていました。地中海でキリスト教国に対抗できるイスラム教国はオスマン帝国しかありません。オスマン帝国とその許可をもらった私掠船はキリスト教国相手に激しい勢力争いをしていのです。
1515年には捕らえた美女をオスマン帝国皇帝セリム1世に贈り褒美をもらいました。
1516年。兄弟は北アフリカのアルジェ(現在のアルジェリア首都アルジェ)を支配していたスペインを破り、アルジェを占領します。アルジェの領主になったウルージですが、領土を取り返そうとするスペインとの戦いで劣勢になります。そこでウルージはアルジェの土地をオスマン帝国に献上しました。セリム1世はウルージをオスマン帝国領アルジェ県の知事に任命しました。オスマン帝国からは大砲や軍船、軍隊が送られました。
1517年。スペインはアブ・ザヤンをトレムセン(アルジェリアとモロッコの堺にある都市)の支配者にしました。アブ・ザヤンはアルジェに攻撃を仕掛けてきましたが逆にトレムセンを陥落、アブ・ザヤンを戦死させました。
しかし1518年。スペインはトレムセンに攻撃をしかけてきました。ウルージとイスハークはスペイン軍と戦いましたが戦死しました。
バルバロス・ハイレッディンの誕生
兄ウルージの死後、フズールは兄の地位とあだ名(バルバロス)を引き継ぎました。
また、このころにはセリム1世から「ハイレッディン」の名前と州軍政官(ベイレルベイ)の地位を与えられていたようです。
ハイレッディンはオスマン帝国から援軍を得てトレムセンを攻撃し奪還しました。さらにイベリア半島のイスラム教徒を北アフリカに運ぶ活動を続けました。さらにアナンバ(アルジェリアとチュニジアの境ある都市)を占領しました。
1519年にはアルジェを奪還に来たスペイン・イタリア連合軍を撃退。
その後、フズール・ハイレッディンは各地でキリスト教国と戦いオスマン帝国の領土を広げました。
神聖ローマ帝国の皇帝カール5世はアンドレア・ドーレアを海軍提督に任命。アンドレア・ドーレアとフズール・ハイレッディンは以後何度も戦うことになります。
1531年。アンドレア・ドーレアは領土奪回のためスペインとイタリア連合軍を率いて北アフリカの都市を攻撃しました。ハイレッディンは南イタリアに遠征中でしたが急遽もどってアンドレア・ドーレアの艦隊と戦います。
1532年。セリム1世が死去、スレイマン1世が即位しました。
スレイマン1世がオーストリア遠征している間にペロポネソス半島(ギリシャ)の都市が占領されてしまいます。メフメドに命じて取り戻しましたがスレイマン1世は海軍の重要性を痛感します。
そこでスレイマン1世はハイレッディンをコンスタティノープルに呼び寄せることにしました。コンスタティノープルに向かう途中、アンドレア・ドーレアの艦隊と戦いて船を捕獲します。
スレイマン1世はフズル・ハイレッディンをカプタン・パシャ(大提督)、北アフリカのベイレルベイ(州軍政官)に任命しました。
1533年。フズル・ハイレッディンはフランスとの外交も担当しました。オスマン帝国とフランスとの休戦に貢献しました。
1534年。スペインに占領されていたギリシャのレパント、パトラ、モレアを奪還。イタリアのカラブリア海岸を略奪してサン・ルーチド城を占領しました。その後もカプリ島、ナポリを攻撃したり、ローマに近いラツィオも攻撃しました。イタリア各地を荒らし回るフズル・ハイレッディンに対してカール5世は刺客を送り込みましたが暗殺は失敗しました。
1535年。チュニスのハフス朝の元国王ムーライ・ハサンはオスマン帝国に奪われた領土を取り戻すためカール5世に助けを求めました。カール5世は300隻の軍船と2万4千のスペイン・イタリア連合軍を送りました。
フズル・ハイレッディンは敗退、この戦いで市内にいた3万のイスラム教徒が殺害されました。ハイレッディンは数千のトルコ人を船に乗せて海に退却、アルジェに向かいました。
プレヴァサの海戦
1536年。コンスタティノープルに呼ばれたフズル・ハイレッディンはナポリ攻撃用に200隻の軍船を受け取ります。
1537年。イタリア半島南部の町に上陸、占領しました。リュトフィ・パシャとともにヴェネツィア共和国のイオニア諸島とエーゲ諸島を占領。コルフ島を襲撃して作物を焼き払い住民を奴隷にして売り払いました。しかしコルフ島の城を落すことはできませんでした。
あいつぐ襲撃に対して教皇パウルス3世は教皇国、スペイン、神聖ローマ帝国、ヴェネツィア共和国、マルタ騎士団からなる神聖同盟を結びオスマン帝国に対抗してきました。
1539年。アンドレア・ドーレア率いる神聖同盟艦隊はヴェネツィアのコルフ島に集まりました。バルバロス艦隊はギリシャ北部のアルタ湾に集まっていました。
オスマン帝国艦隊を攻撃しようとした神聖同盟艦隊ですが、勝てないと判断して撤退しようとしました。しかしフズル・ハイレッディンの部下シナン・レイースの部隊が神聖同盟艦隊に追いついて戦いになりました。神聖同盟艦隊は数席の船が捕獲されたところでアンドレア・ドーレアが撤退命令をだしました。
この戦いでは大した損害はありませんでしたが。キリスト教国をあげての反攻作戦に失敗し、以後1371年にレパントの海戦でオスマン帝国が負けるまで地中海ではオスマン帝国が有利な状態が続きます。
1539年。エーゲ海を襲撃しアンドロス島などをスペインから奪還しました。
1540年。カール5世がフズル・ハイレッディンに寝返りを求めてきましたが、断りました。
1541年。キリスト教国の船への略奪をやめさせるためカール5世はアルジェを包囲しました。冬がきて嵐で船が座礁。カール5世の遠征は失敗しました。
1543年。フランス遠征。スペインに占領されているフランス南部を開放するためでした。スペイン艦隊を破りましたが、スレイマン1世とカール5世の和睦が成立したため帰還しました。
1545年。スペイン本土の港を砲撃。これが最後の遠征でした。
同じ年、フズル・ハイレッディンは引退。
1546年。死去。
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