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皇女アイシェ(アフメト1世の娘)・キョセムの娘は7度の結婚を経験

オスマン帝国国旗

アイシェは17世紀のオスマン帝国の後続。

14代皇帝 アフメト1世と皇帝妃・キョセムの娘です。

生涯のあいだに7度も結婚した皇女でした。

皇帝一家に生まれた女性は政略結婚のため高官と結婚させられることが多いです。高官は高齢だったり、政争で命を失ったりすることもあるので。皇女は1度や2度の死別を経験するのはざらです。

ところが夫の別れがよくある皇女の中でもアイシェの死別回数はずっと多いです。

キョセムの娘・アイシェについて紹介します。

 

目次

アイシェ・スルタンの史実

名前:シャー・スルタン(Ayşe Sultan)
国:オスマン帝国
地位:
生年:1605または1608年
没年: 1657

父:アフメト1世
母:キョセム

夫:後述

子供:ムスタファ、名前不詳の息子

生まれ年の謎

アイシェ・スルタンの生年はいくつか説があります。

1605年生まれとされることがあります。

ところが1605年にはメフメト皇子が誕生。アイシェとメフメトは双子ではありませんから。同じ年に2人が生まれるのは難しい。

そのためメフメト皇子の方がキョセムの息子ではない。という説もありますが。メフメト皇子の母はキョセムが有力です。1605年生まれではないかもしれません。

1608年生まれという説もありますが。それだとキョセムの長女はファトマになります。

生涯で7度の結婚

 

形だけの最初の結婚

彼女の最初の夫は大宰相のナスフ・パシャ。

1612年。母キョセムの圧力によって父アフメト1世の命令で結婚。

アイシェが1605年3月生まれなら7歳。1608年生まれなら4歳になります。

結婚とはいってもアイシェは幼いので形だけ。結婚が決まった後もずっとハレムで暮らしました。

ところが1614年。ナスフ・パシャがアフメト1世の命令で処刑されました。そのためアイシェはナスフ・パシャと同居したことはありません。でもアイシェはナスフの処刑に立ち会ったとされ、心に傷が残ったと言われます。

2度めの結婚。すぐに夫が戦死。

1620年。異母兄のオスマン2世の命令でブダのベイラーベイ(総督)シェヒト・カラカシュ・メフメト・パシャと結婚。

オスマン2世が有力政治家のカラカシュ・メフメト・パシャを味方にしたかったからですが。アイシェの母はキョセムなのでキョセムに力をつけさせることにもなるので危険な賭けでした。

ところが結婚後すぐにシェヒト・カラカシュ・メフメト・パシャがポーランドに遠征。

1621年。カラカシュ・メフメト・パシャは遠征先で死亡。

結婚後、夫はほとんど遠征していたのでアイシェは夫と一緒に暮らしたことはほとんどありません。

3度めの結婚。二人の子供が生まれる

1626年ごろ。キョセムがアイシェと大宰相ハーフィズ・アフメト・パシャとの結婚を希望。

1627年。アイシェはハーフィズ・アフメト・パシャと結婚しました。このときハーフィズ・アフメト・パシャは63歳。アイシェは22~19歳。

ハーフィズ・アフメト・パシャは一度大宰相を止めましたが、1631~1632年に2度めの大宰相になっています。

3回めの結婚でようやく夫との結婚生活をおくり。ムスタファともう一人の男子(名前不明)が生まれました。

1632年。イェニチェリたちが反乱を起こしオスマン2世廃位され。このとき大宰相をしていたハーフィズ・アフメト・パシャも兵たちに襲撃され殺害されました。

 

4度めの結婚。嫌いだった夫

ハーフィズ・アフメト・パシャの死から1ヶ月後。母キョセムはアイシェをディヤルバキルのベイラーベイ(総督)のムルタザ・パシャと結婚させました。

アイシェは高齢で病弱なムルタザ・パシャが嫌いでした。しかし結婚が決まった後もムルタザ・パシャはディヤルバキルにいて、イスタンブールに着たのは1635年。

1636年。ムラト4世の命令でムルタザ・パシャはイランに遠征。戦死しました。

ムルタザ・パシャの戦死はアイシェにとって驚きでもショックでもなかったでしょう。

5度めの結婚。5年続いた結婚生活。

1639年。アイシェはシラフダル・アーメド・パシャと結婚。

今回の結婚は1644年まで続きました。

6度めの結婚。兄イブラヒムによって屈辱を味わう

1645年。母キョセムはアイシェとヘザールグラットル・ヴォイヌク・アフメト・パシャと結婚させました。しかし夫は皇帝イブラヒムによってエディルネに左遷。

イブラヒムはアイシェの同母兄ですが。イブラヒムは母キョセムと仲が悪く、アイシェ、ファトマ、ハンザデたち姉妹とも仲はよくありません。

イブラヒムはアイシェ、ファトマ、ハンザデ、キョセムの孫娘のエスメハンたちの財産と領地を没収。イブラヒムの正妻(ハセキスルタン)ヒューマシャに仕えさせました。

皇女がハセキスルタン(皇帝の妻)の従者になるなるという屈辱でした。アイシェたちはヒューマシャが食事をしているときは側に立ってじっと待たなければいかず、ヒューマシャが使う石鹸、洗面器、水差しを持ってこさせられました。

しかしイブラヒム1世はアイシェ達の働きが悪いと思い、アイシェ達をエディルネの離宮に追放しました。

1649年。その後、イブラヒムはイェニチェリとウラマ(イスラム法学者)の起こした反乱で捕らえれれ処刑され。イブラヒム1世の息子ムラト4世が即位しました。

アイシェと姉妹たちはもとの生活に戻りました。

ところが夫のヴォイヌク・アフメト・パシャはもイブラヒムが廃位された年。クレタ島の遠征中に戦死。アイシェはまた未亡人になりました。

7度目の結婚。心待ちにした夫はすぐに処刑

1654年。アレッポ総督イブシル・ムスタファ・パシャと婚約。彼はアイシェと同じ年でした。結婚7回目で初めて年の近い男性の結婚です。

同時に、イブシル・ムスタファ・パシャは大宰相になりました。前の大宰相が脳卒中で懐妊されたからですが。アイシェの希望もあったといいます。

アイシェはイブシル・ムスタファ・パシャとの結婚を心待ちにしていて、婚約が決まった後も赴任先の夫に何通も手紙や使者を出しました。

でもイブシル・ムスタファ・パシャはイスタンブールには生きたくありません。彼には多くの政敵がいて、大宰相にしたのは罠だと思っていたからです。

アイシェできるだけ早くイスタンブールに戻ってくるように催促しました。メルカン・アガの説得でようやくイスタンブールに来ました。

1655年2月。イブシル・ムスタファ・パシャがイスタンブールに到着すると盛大な結婚式が行われました。

しかしイブシル・ムスタファ・パシャは政敵と対立。政敵と結託したイェニチェリ(常備歩兵団)、スィパーヒー(騎兵)達が反乱を起こしイブシル・ムスタファ・パシャの身柄の引き渡しを要求。イブシル・ムスタファ・パシャはトプカプ宮殿に避難しましたが、高官達は誰も彼に味方しません。

1655年5月。イブシル・ムスタファ・パシャの身柄は反乱軍に引き渡されて処刑されました。

そのため結婚生活は長くは続きませんでした。

1657年。 1657 年に亡くなりました。スルタン・アフメト・モスク(ブルーモスク)にある父スルタン・アフメト1 世の霊廟に埋葬されました。

 

テレビドラマ

新オスマン帝国外伝・影の女帝キョセム・シーズン1
2015年、トルコ 演:ズード・ズラル・ギュナー(Sude Zulal Güner)

 

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