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アヤス・パシャ:スレイマンを支えた元軍人の冷静な宰相

オスマン帝国国旗

アヤス・パシャはオスマン帝国の宰相です。

アヤス・メフメット・パシャともいいます。

セリム1世からスレイマン1世の時代に活躍しました。若い頃はイエニチェリ(常設歩兵部隊)を率いる隊長として戦場で活躍し。その後知事としての実績を重ねました。スレイマン1世の時代には宰相になり大宰相イブラヒムのもとで働きます。アヤスは有能な政治家でしたが野心はみせず、公平で冷静な人物だったといわれます。

アヤス・メフメット・パシャについて紹介します。

目次

アヤス・メフメド・パシャの史実

名前:アヤス・メフメド(Ayas Mehmed)
地位:オスマン帝国
生年:1483年
没年:1539年
父:メフメド
母:
子供:20人

アヤスはアルバニアで生まれました。

父メフメドはアルバニア北部のシュコドラ市出身。母はアルバニア南部のブロラ出身でした。

アヤスは子供のころ、デヴシルメ(徴用)でイスタンブルに連れて行かれました。イエニチェリ(常設歩兵部隊)の兵士として訓練を受けました。

1512年。セリム1世即位。

1514年。カルディランの戦いに参加。

1516~17年のオスマン・マメルカ戦争にも参加しました。

1517年にはイエニチェリの隊長になりました。

その年、エジプトをめぐってマルムーク朝と戦いになりました。マルムーク朝の君主トマンベイはカイロを占領。アヤスはイエニチェリを率いて戦い、トマンベイとの戦いに勝利しトマンベイを捕らえました。この戦いでマルムーク朝は滅亡、エジプトはオスマン帝国のものになります。

1519年。カスタモヌの知事になりました。

1520年。アナトリアの知事になりました。

スレイマン1世の時代

1520年。スレイマン1世が即位。

1521年。ダマスカスの知事になりました。

1522年。ルメリアの知事になりました。

エジプトでアフメドが反乱を起こします。鎮圧のためエジプトに向かいますが途中でアフメドが殺害されたためイスタンブルに呼ばれました。

1523年。第三宰相になりました。

ロードス島の戦いに参加。

モハーチの戦いに参加。

ウィーン包囲戦に参加。

1534~35年のサファビー朝ペルシャとの戦いに参加しました。

1536年に大宰相イブラヒムが処刑になると、後任として大宰相になりました。

大宰相になる

1537年。コルフ島の戦いに参加。

オスマン帝国軍はイタリア征服のため出陣しました。ところがベネツィアが裏切ったため目的を変更。ベネツィアのコルフ島攻略を行いました。

大宰相として臨んだコルフ島の戦いでは、島を包囲したものの城を落とすことができませんでした。アヤス大宰相は撤退を主張。フズル提督は撤退に反対しましたが、最終的に冬が近づいたのでスレイマン1世は撤退を決定しました。

アヤス大宰相は戦いの前にはベネツィアが裏切ることはないと考えていました。そのため責任を追求されることになります。

その後、死亡するまでハプスブルグ家との戦いを続けます。任期中にデルビナサンジャック州がつくられ、アヤスの出身地ヴロラ地域は完全にオスマン帝国の支配下になりました。

1539年。ペストにかかり死亡しました。享年56。

アヤス・パシャは頭の良い人物で用心深い性格でした。態度は紳士的でした。その一方で女好きでした。家にはたくさんのゆりかごがあったといます。アヤスには20人の子供がいました。

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