アルフォンソ(Alfonso de Castilla)はカスティーリャ王国の王子。
アストゥリアス公とも呼ばれ将来の王に近い人物といわれました。
しかし内乱のさなかに若くして死亡していしまいます。
アルフォンソについて紹介します。
アルフォンソの史実
名前:アルフォンソ(Alfonso )
地位:アストゥリアス公
生年:1453年11月17日
没年:1468年7月5日
父:フアン2世(カスティーリャ王国国王)
母:イサベル・デ・ポルトゥガル
姉:イサベル1世
日本では室町時代。日野富子(1440~1496年)に近い時代の人です。
アルフォンソのおいたち
父親のフアン2世はカスティーリャ王国の国王。母のイサベル・デ・ポルトゥガルはフアン2世の2番めの妻。ポルトガル王ジョアン1世の娘です。
姉には後にカスティーリャ女王になったイサベル1世がいます。
異母兄にはエンリケ4世がいます。エンリケ4世はフアン2世と前妻マリア・デ・アラゴンとの間に生まれた子供です。
アルフォンソが生まれて間もなく父フアン2世が他界。異母兄のエンリケ4世が国王になりました。
エンリケ4世によってアルフォンソとイサベル姉弟はセゴビアの宮殿に残されましたが、母はアレバロ城に追放になりました。
アルフォンソが7歳になったとき、マドリードの裁判所に呼び出されフアン王妃の監視下におかれました。フアン王妃はアルフォンソが自分の子供の王位を脅かす存在になると感じて監視していました。この期間にフアン王妃は少なくとも1回はアルフォンソを毒殺しようとしたと噂されています。
エンリケ4世と貴族の対立で内乱が起こる
アルフォンソが幼いころ、国王エンリケ4世は貴族たちと対立していました。エンリケ4世には息子が生まれませんでした。王女フアナが生まれましたが、貴族たちはフアナを「エンリケ4世の子ではない」と信じていていました。
1464年。エンリケ4世と対立する貴族たちはフアナ王女を王家の相続人にするのを拒否。国王に対してアルフォンソを次の王にするように迫りました。エンリケ4世は貴族の圧力に逆らえません。エンリケ4世はアルフォンソが将来フアナ王女と結婚する条件で貴族の要求を認めました。
アルフォンソはアストゥリアス公の称号を贈られました。アストゥリアス公とは次の王に与えられる称号です。事実上の王太子になったのです。
ところが、しばらくするとエンリケ4世はフアナ王女を後継者だと主張します。当然、アルフォンソを支持する貴族たちは反発します。
アルフォンソのもとには続々と貴族が集まりました。
アビラの茶番劇
アルフォンソを支持する貴族はアビラ市に集まります。貴族たちは街の郊外で、エンリケ4世の人形を裁判にかけて廃位してアルフォンソが王だと宣言。アルフォンソを王につける儀式を行いました。これを「アビラの茶番劇」といいます。
アルフォンソは国王に担がれて「アルフォンソ12世」を名乗ります。
エンリケ4世が正式な王にもかかわらず、アルフォンソは貴族たちに称号を与えたり土地の所有権を認めました。有力な貴族がアルフォンソのもとに集まっていたためエンリケ4世には力がなかったのです。
カスティーリャ王国の内乱
やがてカスティーリャ王国は、国王派とアルフォンソ派に分かれて争いになります。
1467年。第二次オルメドの戦いがおこります。アルフォンソの部隊はカスティーリャの中心に向かいます。エンリケ4世の軍がそれを阻止しようとして戦いになりました。
戦力はエンリケ4世の部隊が多かったのですが、引き分けになります。
1468年。内乱のさなかにアルフォンソが15歳の若さで病死しました。死因はペストだったといわれます。しかし貴族たちはエンリケ4世の毒殺を疑いました。
アルフォンソを失った貴族たちは姉のイサベルを王にしようとします。
カスティーリャの内乱はさらに続くのです。
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