ギライ家は15世紀から18世紀にかけてクリミア半島に存在したクリミアハン国のハン(王)の一族でした。
クリミアハン国は黒海に面したクリミア半島を中心に現在のウクライナ南部・モルドバ・ロシアの一部を領土にしていました。首都はバフチサライです。
かつて、このあたりはモンゴル帝国を構成する国のひとつ。キプチャクハン国(モンゴル語:ジョチウルス)が支配していました。キプチャクハン国衰退後に王族が独立して建国したのがクリミアハン国です。
そのためクリミアハン国のハンはチンギス・ハンの末裔を名乗っていました。オスマン帝国もそれは認めています。
クリミアハン国の歴史
建国前夜・衰退するキプチャクハン国
14世紀。キプチャクハン国では後継者を巡って争いが起き。モスクワ大公国やティムールとの戦いにも破れ衰退していきました。
15世紀。キプチャクハン国の首都サライから離れた地方では中央の支配が及ばなくなり、各地で王族が独立してハン(王)を名乗るようになりました。
キプチャクハン国のハンは首都サライとカスピ海周辺の地域を支配するだけになっていました。その政権をウルグオルダといいます。
クリミア方面を統治していた王族のバシ・テムルもウルグオルダのハンに従わず自立を目指すようになります。
ギライ家とはどのような一族だったのか紹介します。
クリミアハン国とは
クリミアハン国
クリミアハン国の建国
12世紀。ウクライナからモスクワ方面にルーシ(キエフ大公国)という国がありましたが、内乱続きで分裂。
ちなみに現在のウクライナはルーシ(キエフ大公国)の子孫といわれます。
13世紀。そこにモンゴルが攻めてきてルーシーはほぼ壊滅。中央アジア(今のカザフスタン)からウクライナあたりはチンギスハンの長男ジョチとその末裔が統治するキプチャクハン国(ジョチウルス)の支配地域になりました。
キプチャクハン国が所属するモンゴル帝国はユーラシアの多くの地域を支配する大帝国になりました。
クリミアもモンゴルの支配下になり。モンゴル・トルコ系(クリミアタタル人の祖先)の人々が移り住みました。
その後、キプチャクハン国内部で争いがあり分裂。王族が各地で「ハン」を名乗り独立しました。
クリミアでも領主の座を巡る争いがありました。ハージー・ギライは一族の争いに勝って領主になりました。
1441年ごろ。ハージー・ギライは「ハン(王)」を名乗り独立。このときが「クリミアハン国」の建国とされます。
クリミアハン国のハンは「クリミアとキプチャクの王」を名乗りました。
キプチャクハン国から分裂した国やモスクワ大公国(後のロシア)を攻めて税をとりたてました。
キプチャクハン国から分裂したカザンハン国とアストラハン国にはギライ家からハンを出すこともありました。
クリミアハン国のハン(王)ギライ家の血筋の者がなります。でも親から子への世襲ではありません。
ギライ家の王子たちは地方に赴任して実績をあげ。ミルザスとよばれる貴族階級の会議で選ばれて次のハンが決まります。ハンに独裁的な権限があるのではなく、部族長会議で次のハンが選ばれる遊牧民の伝統が残っています。
ギライ家はチンギス・ハンの子孫
クリミア・ハン国の王家はギライ家。
ギライ家の祖先はチンギス・カンの長男ジョチの十三男トカ・テムルの子孫です。
トカ・テムルの息子エレン・テムルがキプチャクハン国の第6代目ハン モンケ・テムルからクリミアの統治を任されてクリミアの領主になりました。
チンギス・ハンからギライ家までのつながりはこの様になっています。
オスマン帝国とのつながり
15世紀後半。ハージー1世ギライの死後。ハージ1世の長男ヌル・デヴレットがハンになりましたが。メングリ・ギライが反乱を起こしてメングリ1世ギライがハンになりました。しかし貴族たちの反発を受けてメングリ1世ギライは敗北、逃亡しました。その後も兄弟たちにる争いが続きました。
部族長達はオスマン帝国のスルタン・メフメト2世に助けを求めました。オスマン帝国は軍隊をクリミアに送り内乱に介入。最終的にメングリ1世ギライを新しいハンにしました。
このときオスマン帝国はクリミアハンを任命する権限を得ました。このときからクリミはハン国はオスマン帝国の従属国になります。
オスマン帝国はクリミアハンの任命権は持つものの。クリミアハン国は完全な属国ではなく兄弟国として扱われていました。クリミアハン国は独自の貨幣を鋳造し、独自の法律を作り国内はハンが統治していました。
オスマン帝国は従属国から税を集めていましたが。クリミアハン国は税を納める必要はなく、そのかわりオスマン帝国が遠征するときには軍隊を派遣することになっていました。
その後、メングリ1世ギライの娘アイシェはバヤジト1世の息子セリム(後のセリム1世)と結婚したといわれます。
スレイマン1世の母ハフサはアイシェと同一人物と言われていましたが。メングリ1世ギライの娘アイシェとは別人です。
ギライ家はオスマン帝国でも名門
オスマン帝国ではチンギス・ハンの家系は世界的な名門。ギライ家はチンギス・ハンの子孫と認めていました。
オスマン帝国国内でもギライ家はオスマン家に次いで2番めの格式をもつ一族でした。
オスマン帝国は強力な武力を持つ大国ですが。オスマン家は遊牧民社会では成り上がり者です。オスマン家はギライ家の持つ影響力に期待して北方の国との交渉を任せていました。
クリミアハンがオスマン帝国を訪れると。ハンのために盛大な儀式が行われ、オスマン帝国のスルタンが3歩前に出て挨拶をします。
またクリミアハンが軍を率いてオスマン軍の遠征に合流すると、ハンは大宰相の出迎えを受けてスルタンのもとに案内され。スルタンは「ようこそハン兄弟よ」といって挨拶をする。しきたりになっていました。
スルタンが外国の要人を出迎える最高の格式で出迎えを受けていたのです。
そのためでしょうか「オスマン家が絶えた場合、ギレイ家が後継者になる」という者もいたようです。実際にはオスマン家の家系が耐えることはなかったのでそのような事はありませんし。ギライ家の者をスルタンにしようという話もありません。
でもそのくらい地位が高いと信じられていました。
地位が下る
15世紀から16世紀初頭にかけて。クリミアハンはオスマン皇帝の次に偉く。大宰相よりも上の地位にありました。スルタン・スレイマン1世やセリム2世の時代まではクリミアハン国を丁重にあつかっていました。
しかし。オスマン帝国12代皇帝ムラト3世の時代。クリミアハンのメフメト2世ギレイがオスマン帝国の遠征の命令に従わなかったのでオスマン帝国に逮捕されました。
スルタン・ムラト3世はクリミアハンを大宰相と同じ地位に降格させました。
「新オスマン帝国外伝・キョセム」の時代はクリミアハンの地位が下がっている時代。それでも高貴な血筋と認められていて。ドラマの中ではオスマン家が途絶えたらチンギスの血筋が後を継ぐというセリフが出てきます。実際にはこのようなことは起こりませんでしたが。そう考える人はいたようです。
没落
しかし17世紀。ロシア帝国が強くなると、オスマン帝国はロシア帝国との戦いで負けるようになりました。
1768年から始まった露土戦争ではオスマン帝国は敗北。1774年に結ばれた「キュチュク・カイナルジ条約」ではオスマン帝国はクリミアハン国の宗主権を失いました。
1783年。クリミアハン国はロシア帝国によって併合されます。クリミアはロシアの領土になってしまいました。現在のロシア共和国がクリミアを領土と主張する根拠がここです。
クリミアハン国は滅亡。モンゴル帝国から続くチンギス・ハンの末裔が治める最後の国も消滅しました。
ハンのシャーヒン・ギレイは形だけの王として残っていましたが。1787年にオスマン帝国に亡命。しかしオスマン帝国は反オスマン活動をしていると考えシャーヒン・ギレイをロドス島で処刑しました。
他の王族はバフチサライ宮殿で暮らしましたが。ロシアの監視下に置かれ王家としては終わりました。その後もギライ家の家系は続き現在はイギリスで子孫が暮らしています。
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