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カラ・ダヴド・パシャ|オスマン2世を殺害したハリメの娘婿

オスマン帝国国旗

 

カラ・ダヴド・パシャは16世紀末から17世紀のオスマン帝国の政治家です。

メフメト3世とハリメ・スルタンの娘 シャー・スルタンと結婚。
(新オスマン帝国外伝・影の女帝キョセムではハリメの娘の名前はディルルバスルタンになってます)

15代皇帝 ムスタファ1世の時代に大宰相になりました。

しかしオスマン2世を処刑したため反乱が起こり。その責任を取らされて解任され。

最終的にカラ・ダヴド・パシャは処刑されました。

カラ・ダヴド・パシャとはどのような人物だったのかご紹介します。

 

目次

カラ・ダヴド・パシャの史実

名前:カラ・ダヴド・パシャ(Kara Davud Pasha)
国:オスマン帝国
地位:大宰相
生年:1570年
没年:1623年
父:不明
母:不明
妻:シャー・スルタン

義理の母:ハリメ・スルタン
義理の弟:ムスタファ1世 

子:なし

カラ・ダヴド・パシャはボスニア出身。

デヴシルメでイスタンブルに来てエンデルンで教育を受けた後、部隊に配属。

メフメト3世の時代に宮廷のカピチバシ(門番長)になりました。

1603年。メフメト3世が崩御。アフメト1世が皇帝になりました。

王族の婿になる

1604年。ダヴド・パシャはムスタファ1世の妹シャー・スルタンと結婚。シャー・スルタンは、メフメト3世とその妃ハリメ・ハトゥンの娘。ムスタファ1世の姉妹です。

1604年。ルメリ・ベイレルベイ(ルメリ地方の軍司令官)になった後。

1605年。アナトリア・ベイレルベイ(アナトリア地方の軍司令官)に任命。

アナトリアではジェラーリー反乱を鎮圧。

1612年にはイラン遠征に参加しました。

義弟ムスタファ1世が即位

1617年。アフメト1世崩御。
1617年11月22日。ムスタファ1世が即位。
ムスタファ1世は精神的に不安定だったので母ハリメ・スルタンとカラ・ダヴド・パシャがムスタファ1世を補佐しました。

1618年。イスタンコイリ・チェレビ(グゼルジェ・アリ・パシャ)の後任として海軍総司令官に任命されました。

ムスタファ1世には子供がいませんでした。カラ・ダヴド・パシャとシャー・スルタンには息子がいます。その息子を次の皇帝にする予定だ。とある国の大使が書いています。でもオスマン帝国では皇女の息子には皇位継承権はありません。ただの噂だったようです。

しかしムスタファ1世は1618年2月26日に廃位されてしまいます。

オスマン2世の時代

オスマン2世が即位しました。

1621年にはオスマン2世のポーランド遠征に参加しました。

オスマン2世は皇帝の力を取り戻そうと軍の綱紀引き締めも行いました。しかしポーランド遠征で失敗。オスマン2世は兵士たちの反感をかいイェニチェリが反乱を起こしてしまいます。

イェニチェリの反乱の黒幕はハリメとキョセムという説もありますが。そんなことをしなくても軍は反乱を起こしたでしょう。ただしハリメは皇帝に反感をもつ兵たちに資金援助はしていたようです。

イェニチェリたちは宮殿に突入、監禁されているムスタファ1世を担ぎ出し。旧宮殿にいたハリメを連れてきました。

1622年5月。ムスタファ1世は再び皇帝になりました。

ムスタファ1世の時代に大宰相になる

ハリメはイェニチェリの支持も得てカラ・ダヴド・パシャを大宰相にしました。

ハリメとカラ・ダヴド・パシャはオスマン2世の処刑を決定します。

ところが兵士たちはオスマン2世から皇帝の座は奪いましたが殺すつもりはありません。監禁するつもりだったので前皇帝の処刑には反対しました。

でもハリメとカラ・ダヴド・パシャはオスマン2世が生きていたら危険だと考えました。

オスマン史家イブラヒム・ペチェヴィによれば、カラ・ダヴド・パシャはイェニチェリの指揮官だったデルヴィシュ・アガたちとともに荷車に乗せてオスマン2世をイェディクレの監獄に連行。

翌日。カラ・ダヴド・パシャはオスマン2世を拷問させ、兵たちに命じて殺害させました。彼はオスマン2世を処刑した証拠にオスマン2世の耳を切り取ってハリメのいる宮殿に送ったと伝えられています。

前皇帝の殺害は兵士たちにも動揺を与えました。兵士たちは抗議行動を起こします。

1622年6月13日。ハリメは兵士や大臣たちの非難を受けてカラ・ダヴド・パシャを解任しました。

しかしそれだけでは収まりませんでした。

アバザの反乱

1622年12月31日。オスマン2世を支持者していたエルズルムのベイラーベイ(州総督)、アバザ・メフメト・パシャが挙兵。イェニチェリに反発している騎兵隊も彼に味方しました。キョセムも味方していたかもしれません。反乱軍が迫っていると聞いてイスタンブルの宮廷の人々は混乱しました。

驚いたイェニチェリたちはオスマン2世を殺した者たちの処罰を要求しました。

ムスタファ1世は「オスマン2世を殺害した者を捕らえよ」と勅命を出しました。

カラ・ダヴット・パシャの最期

1623年1月5日にはサマンリクに隠れていたカラ・ダヴット・パシャが捕まえられ、イェディクレ刑務所に投獄されました。妻が処刑人のスレイマン・ウスタに賄賂を渡して彼を助けようとしました。

1月7日には宮廷でカラ・ダヴット・パシャの処刑が決定。

カラ・ダヴット・パシャの処刑はオスマン2世がイェディクレに連行される際に水を飲んだ泉で行うことになり連行されました。するとカラ・ダヴット・パシャはオスマン2世の処刑を認めるアナトリアとルメリのカザスケルからのファトワ(法的見解)や ムスタファ1世からの勅令を取り出して前皇帝の処刑の正当性を訴えました。するとカラ・ダヴト・パシャを支持するイェニチェリは彼を守るために彼を馬に乗せて中央モスクに連れて行きました。

それに対して新しい大宰相は200人の兵士と共に中央モスクを襲撃。カラ・ダヴット・パシャを捕まえて再びイェディクレに連れて行きました。

1月18日。カラ・ダヴット・パシャとオスマン2世の殺害に関わった人々は処刑されました。

アクサライのムラト・パシャ・モスクに葬られました。

 

ドラマ

新オスマン帝国外伝・影の女帝キョセム 2015年、トルコ 演:ムスタファ・ユスチョンダール

 

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