デルヴィーシュ・パシャは16世紀末から17世紀のオスマン帝国の政治家。
アフメト1世に仕え、皇帝から信頼を得ていた人物です。
ボシュニャク・デルヴィーシュ・メフメト・パシャともいいます。
大宰相になりましたがわずか1年で処刑されてしまいました。
策略によって前の大宰相を追い落として死に至らしめたり、トルコ史では評判の悪い人物です。
今回はデルヴィーシュ・パシャとはどのような人物だったのかご紹介します。
デルヴィーシュ・パシャの史実
名前:Boşnak Derviş Mehmed Paşa(ボシュニャク・デルヴィーシュ・メフメト・パシャ)
国:オスマン帝国
地位:大宰相
生年:不明
没年:1606年
父:不明
母:不明
妻:不明
子:なし
警備隊隊長になる
生年は不明。
出身地はボスニア。
トルコ語でボシュニャク・デルヴィーシュと呼ばれるのはそのため。
正教会のキリスト教徒として生まれ。デヴシルメでイスタンブールにやってきて、ボスタンチ(イスタンブールのアナトリア側)で教育を受けました。イエニチェリ(常備歩兵軍団)になり、ボスタンジという帝国警備隊で教育をうけました。比較的若い年齢でボスタンジバシュ(警備隊長)になり、チヴァン・ベイとも呼ばれました。
アフメト1世の信頼をえる
アフメト1世の皇子時代には家庭教師も務めていました。
アフメト1世の母ハンダン・スルタンから信頼され、アフメト1世に強い影響を与えました。
1603年。14代皇帝・アフメト1世が即位。アフメト1世から信頼を受けていたので、デルヴィーシュは皇帝の部屋の警備責任者になりました。
1605年。デルヴィーシュは宰相に任命されました。
また海軍司令官にも任命されました。
1605年。ハンダン・スルタンが死去。
15歳のアフメト1世はさらにデルヴィーシュ・パシャを頼るようになります。
大宰相ララ・メフメト・パシャとの対立
1605年後半から1606年初頭にかけて、ダルヴィーシュ・パシャと大宰相のソコルザーデ・ララ・メフメト・パシャが対立。
当時、オスマン帝国とオーストリアは戦争をしていましたが、和平協定締結のためにジトヴァトロックで交渉が行われました。その最中にララ・メフメト・パシャがイスタンブールに戻ってきました。
デルヴィーシュはアフメト1世にララ・メフメト・パシャをアナトリアの反乱鎮圧とサファビー朝イランとの戦場に司令官として派遣するよう提案しました。
ララ・メフメト・パシャはオーストリアとの戦争はまだ決着がついていないので東部への派遣はおかしい、と断ろうとしました。
和平が成立しそうなオーストリア戦線に対し。イラン戦線ではオスマン軍は苦戦していました。アフメト1世はララ・メフメト・パシャのイラン方面への派遣にこだわっていて、断ったら死刑だと脅しました。
ララ・メフメト・パシャは腹が経ちましたが仕方なくイラン戦線に向かうことにしました。
また、ララ・メフメト・パシャの側近でイェニチェリの指揮官ヒュセインをイスタンブールからアレッポのベイラーベヤに追いやりました。
1606年5月。ララ・メフメト・パシャはユスキュダルで派兵の準備をしている最中に脳卒中で死亡しました。
大宰相になる
ララ・メフメト・パシャの死により、ダルヴィーシュは大宰相になりました。
アフメト1世からララ・メフメト・パシャの財産の一部を軍の必要経費に充て、残りの一部をララ・メフメト・パシャの遺児に与えることが許可されました。しかし、デルヴィシュ・メフメト・パシャは国の予算が不足していたので、すべて国庫に没収しました。
デルヴィーシュ・パシャはララ・メフメト・パシャを東方遠征に行かせるようにしましたが。自分が大宰相になると、食料が不足するかもしれないという理由で遠征を延期するようアフメト1世に説明しました。
自分の代わりにフェルハト・パシャを任命
しかし、この問題に関する協議会でシェイフリスラーム・スンウラ・エフェンディはウスキュダルの軍隊が遠征に出発するのがいいと主張。話し合いの結果、ボスタンジバシュ(警備隊長)のフェルハト・アガを昇進させジェラーリ反乱鎮圧やイラン戦線の司令官として派遣させました。
このときスンウラ・エフェンディは大宰相が遠征すべきと主張したので解任されました。
増収政策
デルヴィーシュ・パシャはまずオーストリアとの和平に目を向けました。大使のレロを通して、有利な条約が結べるようにイギリス王に仲介を依頼しました。
アフメト1世以前から続く戦争によってオスマン政府は資金不足になっていました。そのため改善策を模索しました。
彼は宗教関係者に与えられていた免税措置(ドゥアギュルック税)を削減。
裕福なユダヤ人から余剰銀や宝石を没収。1、2年後に国家が支払うことにしました。
デルヴィーシュ・パシャの政策はイェニチェリからは指示をえましたが。宗教関係者とユダヤ人からは反発を受けました。
彼は、賄賂を受け取る者、職務違反者、偽札を印刷する者を厳しく取り締まりました。
デルヴィーシュ・パシャの時代、オーストリアとの和平交渉(ジトヴァトロック条約)がまとまりました。
フェルハト・パシャの失態
デルヴィーシュ・パシャから東部遠征を任されたフェルハト・パシャはまずアナトリア西部の反乱を鎮圧するためにアイドゥン地方とサルハン地方で大規模な鎮圧作戦を行いました。一般の人々にも被害が出て、これらの地方から大勢の人々がイスタンブールに逃げてきました。
住民への迫害についてディヴァン=ウ・フマーユンはアフメト1世に訴えました。
また給料を受取れなかったイェニチェリの一部が反乱を起こしたので、フェルハド・パシャは撤退を許可。彼らはウスキュダルまで戻ってきました。
また、他の地域でも反乱は続いていました。
フェルハト・パシャの任命は失敗でした。
デルヴィーシュの最期
フェルハド・パシャは反乱を抑えられないばかりか住民にも迫害を加え。避難民が首都にもやってきて。兵たちにも不満が広まっています。デルヴィーシュ・パシャへの非難が高まりアフメト1世も彼を庇えなくなりました。
シーフリスラーム(イスラム長老)になったスンウラ・エフェンディがデルヴィーシュ・パシャの解任を提案。アフメト1世は認めました。
そればかりかアフメト1世はデルヴィーシュ・パシャの処刑も決定してしまいます。
1606年12月9日。解任を知らないデルヴィーシュ・パシャは宮殿に招かれてやってきたところを、待ち構えていた兵士たちによって絞め殺されました。
処刑の理由
大宰相の解任はともかく、処刑された理由は不明です。
様々な理由が考えられます。
デミルカプの近くに邸宅を建てるためにユダヤ人を雇いましたが。建築監督をしていたユダヤ人が何らかの理由で彼を恨み「邸宅の地下室から宮殿までの秘密の道を開き、スルタンを暗殺する」という噂を密かに流したので謀反の疑いで処刑したこと。
また、デルヴィーシュが建設費を払わず、このユダヤ人に全額を支払わせたという噂もあります。
デルヴィーシュが彼の邸宅にイエス・キリストとマリアの絵を飾り、キリスト教徒だと非難されたともいわれます。
イスタンブールに住むユダヤ人から1000アクチェの税を徴収しようとし、宮廷関係者に賄賂を送り賛同を得ようとしてた。
など。
大宰相とはいえデルヴィーシュ・パシャはカプクル(皇帝の下僕)なので裁判せずに皇帝の思惑一つで処刑できます。そのため詳しい処刑理由が記録されることはあまりありません。
後日。アフメト1世はデルヴィーシュ・パシャの暗殺を後悔しました。
彼の遺体はウスキュダルのミスキンラー近くに埋葬されたと記録されています。
彼の財産は国に没収され。その中からビュユクチェクメセ周辺の村の農場は、ドゥアンクバシュ・ハフュズ・アフメッド・アーのものになり。デミルカプの屋敷はまずエジプト軍のハッサン・パシャに、次にレイスキュルキュタブ・ハムザ・エフェンディに与えられました。
オスマン帝国の歴史家たちはデルヴィシュ・パシャを非常に傲慢で、独善的で、残酷な人物として描いており、一般的には評判はよくありません。
でもイギリス大使レロは、宰相のことをこれまで見た中で最も決断力があり、巧みな人物であると評価しています。
ドラマ
新オスマン帝国外伝・影の女帝キョセム 2015年、トルコ 演:メフメット・クルトゥルシュ
ドラマのデルヴィーシュ・パシャはアフメト1世の師でもあり親しいボディーガードです。アフメトにとっては頼りになる父親のような存在です。
彼は貧しい子供時代を過ごしました。彼が「ダルヴィーシュ」と呼ばれた理由は、乏しかったからでした。「デルヴィーシュ」とはスーフィー(イスラム神秘主義)の修行僧のことですが。彼らは質素な生活をして修行したり托鉢をしています。みためがまるで苦行僧のように品育ったからです。
ただし「デルヴィーシュ」には「賢者」「尊敬できる人」の意味もあり。人の名前に「デルヴィーシュ」「ダルヴィッシュ」と付けるときはそちらの意味で使われます。
ドラマでは命令でスルタン・アーメドの叔母ファーリエ・スルタンと結婚しました。心のなかではハンダン・スルタンをとても愛しています。ハンダン・スルタンとアフメトの将来のために先帝メフメト3世を毒殺したという過去があります。
愛が深いゆえに過ちを犯す人物として描かれます。
コメント