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イスケンデル(アレキサンダー)/ヤフヤ皇子・オスマン帝国の皇子を名乗る反乱

オスマン帝国国旗

イスケンデル(アレキサンダー)はオスマン帝国の皇子を名乗る人物。

オスマン帝国12代皇帝ムラト3世の息子ヤフヤを名乗っていました。

14代皇帝アフメト1世の時代。ヤフヤ=アレキサンダーはオスマン帝国の王位継承権は自分にあると訴えてバルカン半島を中心に活動しました。

ヨーロッパではモンテネグロのアレキサンダー伯爵(Count Alexander of Montenegro)として知られます。イスケンデルはアレクアンダーのトルコ語読みです。

ヨーロッパの各地を周り支援を求めました。

兵士を集めてイスタンブールに攻め込んだこともあります。

一生をオスマン帝国への王位継承活動と反乱に捧げましたが皇帝になることはできず、反乱の最中に病気になってモンテネグロで死亡しました。

目次

イスケンデル/ヤフヤ皇子の史実

名前:アレクアンダー(Alexander)/イスケンデル(İskender)
ヤヒヤ・ビン・ムラト(Yahya bin Murad 、自称)

地位:オスマン帝国皇帝
生年:不明
没年:1648年か1649年
父:ムラト3世?(自称)
母:サフィエ・スルタン?(自称)
妻:アンナ・カテリーナ(ドリシュト伯爵ペテロの娘)
宗教:正教

子:モーリス(男)、エレナ(女)

いつどこで生まれたのかは不明。

ヤヒヤ自身の主張では。
父はオスマン帝国の12代皇帝・ムラト3世。
母はサフィエ・スルタン。

ムラト3世が死亡してメフメト3世があとを継いだ時。兄弟殺しの慣習でメフメト3世の兄弟は処刑されました。このときヤヒヤの母はヤヒヤを国外に逃しました。

最初はギリシャに逃れ、その後ブルガリアに移動。現地で正教の洗礼をうけました。キリスト教名はアレクアンダー(トルコ語読みでイスケンデル)

オスマン帝国のヤフヤ皇子を名乗る

1603年。メフメト3世が死亡。アフメト1世が即位しました。

アレクアンダーは自分はオスマン帝国皇帝ムラト3世の皇子ヤヒヤでオスマン帝国の皇帝になる権利があると主張しました。

ヤヒヤは北欧や西ヨーロッパを頻繁に訪問。フィレンツェ、マドリッド、ローマ、クラクフ、アントワープ、プラハなどを訪れ援助を訴えました。

イスタンブールに攻め込む

1614年から1617年にかけてはスィパーヒー(兵士)に変装して旅をして、オスマン帝国のプリズレン県(現在のコソボ)にいたセルビア正教会の司教や西ローマ・カトリックの司教や指導者たちと会い。ノビルダやシャール山で蜂起しようとしました。

数年後。ロシアとウクライナのコサックから130隻の艦隊を借りてイスタンブールに攻め込みましたが。

コサック:ロシアやウクライナにいたスラブ人やタタル、テュルク民族で国に所属しない人たちが集まって造った軍事組織兼共同体。もともと遊牧民なので戦いに強く独立心が高いです。

しかし作戦は失敗しました。

その後もヤフヤはヨーロッパの宮廷を回って援助を求めました。

1643年。ノビルダに戻りました。

ヤフヤの最期

1648年か1649年。当時、オスマン帝国領だったシュコドラ(アルバニアのシュコドラ市)とバール(モンテネグロのバール市)でローマカトリック司教が反乱軍を組織。ヤフヤも参加しました。

しかし病気になりモンテネグロの海岸で死亡しました。

 

家族

1630年の初めごろ。ドリシュト伯爵ピーター公爵の娘・アンナカテリーナと結婚しました。
ヤヒヤは「モンテネグロのアレクサンドル伯爵」を名乗りました。

アンナカテリーナは15世紀のアルバニアの領主でムラト2世やメフメト2世の軍と戦ったスカンデルベグの子孫といわれます。スカンデルベグはオスマン帝国への抵抗活動の英雄とされています。

ヤヒヤには反オスマン派の領主達が味方にいたのではないかとも考えられます。

二人の間には1635年に長男モーリス。
1638年には長女エレナが生まれました。

家族がどうなったかは不明です。

ヤフヤは本物の皇子だったの?

アレキサンダー/ヤフヤは自分でオスマン帝国皇帝の息子を名乗っています。しかし証拠はなくオスマン帝国にもヤフヤの記録はありません。

現在ではアレキサンダーがオスマン帝国の皇子だったとは認められていません。

当時のヨーロッパの王族にも彼を偽物だと疑う人はいました。そのため直接国の援助は得られず、領主や武装組織や反乱軍の援助をうけていました。

ヨーロッパ人がオスマン帝国皇子を名乗っても不思議ではない

当時のバルカン半島はイスラム教・正教・カトリックが入り混じった複雑な地域。民族もバラバラです。

オスマン帝国自体も宗教に寛容でキリスト教世界出身の母親をもつ皇帝や皇子皇女は沢山いました。イスタンブールを都にしてからは皇帝の多くがキリスト教圏出身の母をもっています。そのため見た目はヨーロッパ人で正教徒の人物がオスマン帝国の皇子を名乗っても不思議ではありません。

一方。バルカン半島はもともと様々な民族や国が存在する地域でした。16世紀にオスマン帝国の領土になりました。オスマン帝国の支配に不満を持つ人もいました。

このころはまだオスマン帝国の力も強くあからさまに独立戦争を挑む人は多くはありません。でもときどき皇子を名乗るものが出ては反乱を起こしています。自称皇子は現状に不満を持つ人の受け皿になったのです。アレキサンダー/ヤフヤを支持したのもそういう人たちでした。

ドラマ

新オスマン帝国外伝・影の女帝キョセム 2015年トルコ 演:ベルク・カンカット

TVドラマ「新オスマン帝国外伝・影の女帝キョセム」ではイスケンデル(アレクサンダー)と呼ばれています。

劇中では噂通りムラト3世とサフィエ・スルタンの実の子供。幼い頃に逃されて自分の素性を知らずに育った事になっています。

歴史上はヨーロッパ社会で活動していましたが。ドラマではオスマン帝国の中で活動。ヨーロッパの伯爵ではなく、イェニチェリやオスマン帝国の高官になっています。

ヒロインキョセム・スルタンに恋します。でも彼女は彼の気持ちには応えず。キョセムの息子から皇帝の座を奪おうとするイスケンデルを殺害させます。

 

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