アイシェ・ヒューマシャー・スルタンはオスマン帝国の皇女。
ミフリマーフ皇女の娘。
母の父(祖父)は10代皇帝スレイマン1世。
母の母(祖母)はハセキ・ヒュッレム・スルタン。
アイシェ・ヒューマシャー・スルタンは皇帝スレイマン1世とヒュッレム・スルタンの初孫。非常に可愛がられました。
アイシェ・ヒューマシャー・スルタンは皇族とおなじ待遇を受け、母ミフリマーフ・スルタンと同じ様に影響力をもった女性でした。
アイシェ・ヒューマシャー・スルタンについて紹介します。
アイシェ・ヒューマシャーの史実
名前:アイシェ・ヒューマシャー・スルタン(AyşeHumaşahSultan)
地位:オスマン帝国
生年:1543年
没年:1594年
父:ダマット・リュステム・パシャ
母:ミフリマーフ・スルタン
夫:シェムシ・アフメト・パシャ(ŞemsiAhmetPasha)
ニシャンジュ・フェリドゥン・ベイ
子供:アブドゥラマン・ベイ、アフメト・ベイ、ムスタファ・パシャ、オスマン・ベイ
1543年。イスタンブールで生まれました。
父はダマット・リュステム・パシャ
母はミフリマーフ・スルタン。
ミフリマーフとリュステムにとっては最初の子供。
ヒュッレム・スルタンにとっては最初の孫です。
祖父母のスレイマン1世やヒュッレムからも可愛がられました。
オスマン帝国の慣例では女性には相続権はありません。皇女の娘は普通はハニムスルタン(hanımsultan)とよばれ。皇女(Sultana)よりワンランク下の地位になります。
でも祖父母は帝国で最も権力のある人物。慣例破りの常習犯スレイマン1世とヒュッレムです。アイシェ・ヒューマシャーは特別に皇女(Sultana)扱いされていました。ハニムスルタンなのにスルタナ扱いされたオスマン帝国の歴史でも唯一の存在です。
母のミフリマーフは毎日のようにアイシェ・ヒューマシャーをつれてトプカプ宮殿にでかけて彼女の両親に娘を会わせていました。そのためアイシェ・ヒューマシャーはリュステムの屋敷とトプカプ宮殿の両方で暮らしました。
ヒュッレムの長男メフメト皇子の死後。メフメト皇子の娘ヒューマシャー・スルタンはトプカプ宮殿のヒュッレム・スルタンのもとで育てられました。
そのためアイシェ・ヒューマシャーはいとこのヒューマシャー・スルタンとも一緒に育った可能性が高いです。
1558年。祖母ヒュッレム・スルタンが死亡。アイシェ・ヒューマシャーは当時15歳でした。
1561年。父のリュステム・パシャが死亡。
超 歳の差結婚?
時期は不明ですがルメリア総督のシェムシ・アフメト・パシャと結婚。
シェムシ・アフメト・パシャは1492年生まれとされています。そうなるとアイシェ・ヒューマシャーとは50歳近くも歳が離れていることになり。父のリュステム・パシャよりも歳上。祖父のスレイマン1世とほぼ同じ年。非常におかしな結婚になってしまいます。
シェムシ・アフメト・パシャは1553年にムスタファ皇子が処刑されたとき。大宰相リュステム・パシャの軍に騎兵隊の隊長として参戦。途中でイェニチェリたちがリュステム・パシャのいうことをきかなくなり、ムスタファ皇子を自分たちの皇帝と崇める発言をしました。
このとき使者になってイスタンブールにいるスレイマン1世にリュステム・パシャの伝言を伝えました。その話が本当だとすると60歳の伝令になってしまいます。実際にはもう少し若かったのかもしれません。
でもシェムシ・アフメト・パシャが記録より若かったとしても。母ミフリマーフと同じ様に親子ほど年の差のある相手と結婚したのは確かなようです。
皇族女性と結婚すると非常にお金がかかるので地位のある男性しか皇女と結婚できません。高齢男性との結婚が多くなってしまいます。
シェムシ・アフメト・パシャがリュステム・パシャの忠実な部下というのもアイシェ・ヒューマシャーが結婚する理由だったかもしれません。
どちらにしてもアイシェ・ヒューマシャーには決定権はありません。決めたのはスレイマン1世でしょう。
歳の差結婚したアイシェ・ヒューマシャーですが、嫌ならシェムシ・アフメト・パシャの相手を拒む権利がありました。でも二人の間には何人もの子供が生まれています。
1666年。スレイマン1世が死亡。セリム2世の時代になりました。
ムラト3世の時代。
1674年。セリム2世が死亡。ムラト3世の時代になりました。
アイシェ・ヒューマシャーはムラト3世の妃サフィエ・スルタンと仲が良く、母后のヌールバーヌスルタンと対立していたといいます。
1578年。母ミフリマーフ・スルタンが死亡。母の財産はアイシェ・ヒューマシャーが受け継ぎました。父や母が管理していた慈善団体の経営も受け継ぎました。
両親から莫大な財産を受け継いだアイシェ・ヒューマシャーはオスマン帝国でもとくに裕福な女性でした。
1579年。夫のシェムシ・アフメト・パシャが大宰相になりました。
1580年。ところがもともと高齢だった夫のシェムシ・アフメト・パシャが死亡しました。
1582年。アフメト・フェリドゥン・パシャと結婚。
1583年。アフメト・フェリドゥン・パシャが死亡。結婚生活は非常に短いものでした。
1590年。アジズ・マフムード・フダイ・エフェンディと結婚。
1594年。死去。享年52。
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