オスマン帝国では皇帝の母・妃・側室たちが暮らす空間のことをハレムといいます。
江戸城の大奥やアジアの王朝によくある後宮と同じものだと思えばいいでしょう。
ハレムは2代オルハンの時代にはあったといわれます。
7代皇帝メフメト2世の時代に制度が整えられ。皇帝の母、姉妹、妃・側室たちとその使用人が暮らしていました。
オスマン帝国のハレムのしくみとそこで暮らす妃や側室達の位・階級について紹介します。
ハレムの規模
ハレムには多いときには1600人の人々がいたといいます。これらの数は憶測で語られていたもので誇張されているようです。
実際には12代ムラト3世の時代に49人でした。スレイマン1世の時代はもっと少なかったでしょう。ハレムが拡張された17世紀には400人以上に増えたようです。名簿の残っている18世紀のセリム3世の時代に720人まで増え、19世紀初期のマフムト2世の時代には473人でした。17世紀以降はだいたい400人くらい。
皇帝妃から侍女までふくめた数です。ほとんどの女性が皇帝と会ったこともなかったでしょう。
歴代皇帝が宮殿改築を繰り返したので時代によってハレムの規模もデザインも違い舞ます。
トプカプ宮殿は1460年ごろに完成していました。でもハレムは旧宮殿(エスキサライ)のものを使用していました。
1520年に即位した10代皇帝スレイマン1世はトプカプ宮殿を大幅に改築。トプカプ宮殿にもハレムを作りました。1530年代にトプカプ宮殿のハレムが完成。1534年に亡くなったハフサ・スルタンはトプカプ宮殿のハレムにはいなかったか、いても短い期間だったことになります。
12代皇帝ムラト3世の時代にハレムが拡張されて3倍の大きさになりました。皇帝の私的空間とハレムが一緒になり、ますます皇帝がハレムにいる時間が長くなりました。母后や妃の影響が大きくなる理由の一つになります。
トプカプ宮殿のハレムが完成後もエスキサライのハレムは使用されました。エスキサライのハレムは主に先帝の妃や側室たちが暮らす場として使われます。
ハレムの最高位は母后
ヴァリデ・スルタン(Valide sultan)母后
「母后」ともいいます。皇帝の母。ハレムの最高位。
ヴァリデ(valide)は「母」の意味。
女性皇族に最初にスルタン(sultan)の敬称がついたのは10代皇帝スレイマン1世の生母ハフサ。
それまでは皇帝の母も「ハトゥン(Hatun)」とよばれそれほど権威はありませんでした。
ハトゥン(Hatun)はオスマン語で女性の敬称。英語の「Lady」に相当します。もともとはテュルク・モンゴル系遊牧民で女王を意味する「カトゥン」が語源。「カトゥン」は遊牧民の王を意味する「カーン」の女性形です。
スレイマン1世の時代に称号が改められ、皇族女性にもアラビア語由来のスルタン(sultan:権威)を使用することになりました。ハトゥンは皇族ではない女性の敬称になります。
母のハフサを大切にしていたスレイマンは母の権威を高めました。母后には大宰相以上の年金が支払われました。ハフサはその収入を生かして病院・モスクなど福祉施設を建造、貧しい人に食べ物を与えたり福祉事業を行っていました。その後の母后も福祉事業に取り組むようになりました。
ハフサ・スルタンはハレムで大きな力を持ちました。でもそのころはまだハレムの制度もはっきりと決まってなかったので組織や階級はあいまいです。
ヴァリデ・スルタン(Valide sultan)の称号が正式に使われたのはムラト3世の母・ヌールバーヌからです。
でも称号のあるなしはともかくハフサ・スルタンがハレムの中で大きな力をもっていたのは確かです。だから歴史的にはハフサ・スルタンも母后も呼びます。
ハレム内で高い権威をもったハフサですが政治には口を出しませんでした。
トルコドラマ「オスマン帝国外伝・愛と欲望のハレム」ではハフサたちがスレイマンと同じ建物で暮らしているように見えます。実際には別の建物で暮らしていました。
母后がトプカプ宮殿の施設内で皇帝と一緒に暮らすようになったのはムラト3世の母ヌールバーヌの時代からです。ムラト3世の時代にトプカプ宮殿の大改築が行われ、皇帝の居住施設とハレムが一緒になったのです。
皇帝がハレムにいる時間が長くなると、ハレムの女性たちの影響も大きくなります。「女性の時代・女人政治」とよばれる時期には母后や妻(ハセキ・スルタン)たちが政治に影響を与えたこともありました。
特に大きな影響力をもった母后には12代ムラト3世の母ヌールバーヌ、13代メフメト3世のフィエ、アフメト1世の母キョセムなどがいます。とくにキョセムは皇帝の代わりに政治を行うなどオスマン帝国史上もっとも力のあった母后といわれます。
普通は生母が母后になります。オスマン帝国最後の皇帝アブデュルハミト2世は養子だったので、母后ペレストゥ・スルタンの息子ではありません。ペレストゥ・スルタンはアブデュルハミト2世育ての親だったので非常に仲はよかったといいます。
また11代セリム2世が即位した時には生母ヒュッレム・スルタンが亡くなっていました。そこで姉のミフリマーフ・スルタンが事実上の母后の役目をはたしたともいわれます。
夫人と愛妾・側女
ハセキ・スルタン(Haseki sultan)
皇后。
ハレムで母后の次に発言力をもっている人物。
皇帝の妻・側女の中では最高位。
ハセキはアラビア語由来でペルシャ語に入って変化してオスマン語になりました。「配偶者、そばにいる者」の意味があります。
皇帝の息子の母が「ハセキ」と呼ばれました。皇帝と正式に結婚しているかどうかは関係ありません。
皇子の母が「ハセキ」なので複数のハセキが存在することもありました。普通は年長の息子の母が最も権威があります。
「ハセキ・スルタン」と言った場合は、皇帝と正式に結婚した「法的妻」の称号になります。最初に「ハセキ・スルタン」と呼ばれたのはスレイマン1世の妻ヒュッレムです。
ハセキ・スルタンは黒テンの毛皮を着て宝石のついた王冠をかぶっていました。他の側室とは区別されます。個室が与えられ、従者がつきます。
ハセキ・スルタンは16~17世紀の間に使われました。
カドゥン・エフェンディ(kadın efendi)
皇帝妃。夫人。
17世紀ごろから使われていたヨーロッパ風の呼び方。23代皇帝アフメト3世の時代にペルシャ由来のハセキスルタンに代わって正式採用されました。以後、ハセキスルタンの称号は廃止。バシュカドゥンが最高の称号になります。でもバシュカドゥンでもかつてのハセキスルタンほどの権威はありません。
カドゥンは個室をもっています。専用のキオスク(庭園に置かれた日陰をつくるための建物)を持っていることもありました。
カドゥンエフェンディは最大4人います。イスラム法では4人まで妻にすることが認められているからです。
バシュカドゥン(BaşKadın):第一夫人。
イキンジカドゥン(ikincikadın):第二夫人。
ウチュンジュカドゥン(üçüncükadın):第三夫人。
ドージュンジュカドゥン(dördüncükadın):第四夫人。
カドゥンエフェンディが死亡したり、いなくなると下の階級の人が昇格します。
カドゥン(kadın)
夫人・皇帝妃。
ハセキスルタンより下の地位たち。オスマンの皇帝は法的な結婚はしないのが普通でした。他の王朝でいうと「側室」あつかいになります。
時代によって違いますが4~7人いたようです。カドゥンにも序列がありました。子供のいるいないは夫人の地位を高める重要な要素ですが。序列の順番そのものにはあまり関係がありません。皇帝や母后の判断しだいです。
オダリク(Odalık)という言葉もありますが。17世紀末から18世紀にかけて一部の夫人に使われた言葉です。部屋(オダ)に住んでいるのでオダリク。あだ名みたいなものなので正式な用語ではありません。でもオダリクがヨーロッパに伝わって「オダリスク」に訛り、ハレムの女性=オダリク(オダリスク)みたいに思われていました。
イクバル(ikbal)
愛妾
意味は「幸運な」
皇帝の夜伽をするために選ばれた側女。少なくとも1回以上、皇帝の夜伽をつとめた側女はイクバル(ikbal:幸運)と呼ばれます。子供のいる・いないは関係ありません。
ギョルデ(gözde:お気に入り)と呼ばれることもあります。ギョルデは俗称みたいなもので正式な呼び名ではなかったようです。
カリエ(Cariye)
臣下や裕福なものから皇帝に贈られて来た奴隷が多いといいます。普通は皇帝の目にふれることはなく母后(いない場合は最上位の妃)の管理下におかれ、侍女として働きます。
特別に美しかったり、歌や踊りの才能があると認められれば皇帝の側女になるために訓練され、皇帝の相手を務めることもあります。
本来オダリクというのはトルコ語で「部屋」の意味。西洋ではオダリクから派生したオダリスクをハレムの奴隷の意味で使っていました。オダリスクと言った場合はヨーロッパ人の妖しげな妄想が入っているので、本来の意味でのハレムにいる女性とは違うイメージで描かれることが多いです。
カリエは9年間の奉仕の後、開放され。その後は宮廷が手配した相手と結婚します。
アジェミ (Acemi)
Acemilik (初心者) やSakird(見習い)ともよばれます。ハレムにやってきたばかりの人。
ハレムのしくみや階級は時代によって代わっています。資料が豊富に残っている18、19世紀とスレイマンの時代(16世紀)は違う部分もあります。ドラマでは脚色された部分もありますが、だいたいの雰囲気は伝わると思います。
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