アルカス王子はサファヴィー朝イランの王子。
2代シャー(王)タフマースブ1世の弟です。
本名はアブル・ガジ・スルタン・アルカス・ミルザ(Abu’l Ghazi Sultan Alqas Mirza)
一般にはアルカス・ミルザと呼ばれます。
兄タフマースブ1世に謀反を起こしました。兄との戦いに敗れたアルカス王子はオスマン帝国に亡命。スレイマン1世と会ってイラン遠征を勧めます。
スレイマン1世はアルカスを王にしようと遠征しますが失敗。
アルカスの謀反も失敗して最後はイラン軍に捉えられて処刑されてしまいます。
アルカス・ミルザの史実
本名:アブル・ガジ・スルタン・アルカス・ミルザ(Abu’l Ghazi Sultan Alqas Mirza)
国:サファビー朝イラン
地位:サファビー朝王子
生年:1512年
没年:1550年
享年:34
宗教:シーア派イスラム教
父:イスマーイール1世
母:ベグム
兄:タフマースブ1世
バハラーム・ミルザ
同母弟:サム・ミルザ
妻:カディジャスルタン
子供:
アフメド・ミルザ
ファルク・ミルザ
生い立ち
1512年。イランで生まれました。
父はサファヴィー朝を建国したイスマイール1世。
母はイスマイール1世の側室ベグム。
兄のタフマースブ1世は異母弟
弟のサム・ミルザは同母弟です。
1524年。父イスマイール1世が死去。兄タフマースブが国王になりました。
1532年。兄タフマースブ1世からアスタラバードの知事に任命されました。
1538年まで知事を務めました。
その後、1538年から1547年まではシルヴァンの知事を務めました。
タフマースプの時代にはコーカサス方面への遠征が頻繁に行われました。アルカスはコーカサスを攻撃するよう命じられ出陣しましたが。コーカサスに敗退しました。
1547年。アルカスはダーバンドの知事に任命されました。
兄タフマースブ1世に反乱を起こす
ダーバンドの知事時代。アルカスはダーバントで自分の硬貨を鋳造しました。貨幣の発行は王が行うものです。貨幣の発行は違法ですし反乱行為でした。
タフマースブ1世は当時ジョージアに遠征中でしたが、アルカスが謀反を起こしたとの報告を聞くとダーバントに向かって進軍し始めました。
アルカスはダーバントからクリミアに逃げました。1547年の初めにはタフマースブ1世はダーバントを奪還していました。
逃亡先のクリミアはオスマン帝国の領土になりました。そこでアルカスは海路でイスタンブールに移動。1547年の夏の終わりには到着しました。
イスタンブールではオスマン帝国の皇帝(スルタン)スレイマン1世に連絡をとり、イランを離れた理由と、オスマン帝国の顧客としてイランに戻りたいことを説明しました。
スレイマン1世は当時はエディルネに滞在中でしたが、アルカスの報告を聞くと急遽イスタンブールに戻ってアルカスに会いました。
アルカスはスレイマン1世に、サファヴィー朝の領主達の支援があると言い、イラン遠征を勧めました。このときアルカスはオスマン帝国の援助と引き換えにシーア派からスンニー派に改宗した可能性があります。オスマン帝国(トルコ)はスンニー派の国、サファヴィー朝イランはシーア派の国です。(現在も基本は同じです)
スレイマン1世はアルカスをサファヴィー朝の王にしようと考え、遠征を決定します。
オスマン-サファヴィー戦争
1548年。オスマン帝国のスレイマン1世はイラン遠征を決定。
大宰相リュステム・パシャを指揮官にして遠征軍を派遣しました。
アルカスは領主達の支持があると言っていましたが。ところがオスマン帝国軍がイランに入ってみると、地元の領主達の支援は得られませんでした。
1548年7月27日。オスマン帝国軍はイラン軍を破りタブリースを占領。しかし王のタフマースブ1世はオスマン帝国軍が到着する前に都市をとまともに戦おうとせず逃げました。
しかもタフマースブ1世は街を壊して去りました。そのせいでオスマン帝国軍は街を占領しても補給ができません。まともに戦わずオスマン帝国軍を消耗させるのがタフマースブ1世の作戦でした。
しかも、アルカスが言っていたような地元の領主達の支援はありませんでした。アルカスとリュステムは作戦がうまくいかないことについて口論になりました。
アルカスは600人の兵と物資を与えられイラン国内で独自の活動を行うことになりました。
結局、オスマン帝国軍は悪天候と補給物資の不足に苦労して撤退します。
イランに残ったアルカスはいくつかの街を攻撃して略奪しましたが、イラン軍に追い詰められてオスマン帝国に撤退します。
その後タフマースブと関係を取り戻そうと戦利品の財宝をタフマースブに贈ります。さらにシーア派の聖地を巡礼。スンニー派に改宗したはずなのにシーア派として振る舞ったためオスマン帝国の人々から信用を失っていきました。
リュステム・パシャの進言をうけてスレイマン1世はアルカスとは縁を切ることを決定。アルカスを捉えるため兵を派遣します。
1549年9月。居場所を失ったアルカスは逃亡。オスマン帝国からイランのマリヴァンに逃げました。
1549年10月。アルカスは異母兄のバハラーム・ミルザが率いるイラン軍に囲まれてしまいます。アルカス王子は降伏。息子たちとともにアラムート城に投獄されました。
1550年4月10日。タフマースブ1世の命令で処刑されました。享年34。
二人の息子も処刑されました。
ドラマオスマン帝国外伝のアルカス王子
トルコドラマ「オスマン帝国外伝・シーズン4」にアルカス王子が登場します。
兄と対立してイランから亡命したアルカス王子はリュステム・パシャと会いイラン遠征を勧めます。
その後、スレイマン1世と会ってイラン遠征の約束を取り付けました。
劇中でミフリマーフ皇女がアルカス王子に恋する場面があり。それを知ったファトマ皇女はニセの手紙を書いてミフリマーフに贈り、ミフリマーフとリュステムを離縁させようとします。ファトマが偽の手紙を出したことがバレてこの企みは失敗。
ファトマが男と会っていることを知ったミフリマーフは姦淫罪で通報。ファトマに復習しようとします。やってきた役人はファトマが皇女だとわかりません。
そこにリュステムがやってきて、リュステムとファトマの取引でファトマはアルカス王子と婚約することになってしまいます。
そしてアルカスはイランとの戦争にでかけますが戻ってきませんでした。
歴史上、アルカス王子にはすでにカディジャという妻がいて子供もいます。ファトマ皇女との婚約はありません。ドラマの作り話です。
コメント