スレイマン1世はオスマン帝国の第10代皇帝。
オスマン帝国の領土を拡大、様々な法律を整備して全盛期を築いた皇帝とも言われます。
トルコのドラマ「オスマン帝国外伝・愛と欲望のハレム」にも登場するので日本でもよく知られるようになりました。
スレイマン1世の時代はハレムも注目を集めた時代でした。妃のヒュッレムはヨーロッパでもロクセラーナの愛称で有名になりました。
歴史上のスレイマン1世の妻・側女と子どもたちを紹介します。
埋葬場所も紹介しておきます。埋葬場所を見ると生前の人間関係もわかって興味深いです。
スレイマン1世のプロフィール
妃を紹介する前にスレイマンのプロフィールを紹介します。
年齢差などの参考にしてください。
スレイマン1世
(I. Süleyman)
生年:1494年11月6日。
没年: 1566年9月7日(享年71)。
父:セリム1世
母:ハフサ・スルタン
生誕地:ブルサ
埋葬地:イスタンブル・スレイマニエモスク
スレイマン1世の妻と子供たち
ヒュッレム・スルタン
(Hürrem Sultan)
名前の意味は「陽気な人」
別名:ロクセラーナ(Roxelana)ヨーロッパ大使がつけた愛称。意味は「ロシアの女」。
生年:1502~1504年ごろ
没年:1558年4月15日
享年:54~56歳くらい
父:Havrylo Lisowski
母:Leksandra Lisowska
埋葬地:イスタンブル・スレイマニエモスク
子供:
メフメト
ミフリマーフ
セリム2世
バヤズィト
ジハンギル
オスマン帝国のハセキ・スルタン。皇帝スレイマン1世の法定妻(正妻)。
本名はアレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカ。出身地は現在のロシアかウクライナ。当時はポーランドの領土。ロシア系民族だったようです。
スレイマン1世の即位後。オスマン帝国のハレムに入りました。ハレムではイスラム教徒に改宗してヒュッレムと名付けられます。
ヒュッレムはスレイマン1世の寵愛を集めました。ヒュッレムは奴隷の身分から開放され、正妻になりました。オスマン帝国では皇帝の妻は他国との政略結婚のために開けていました。その慣例を破って正妻になったのです。奴隷身分から皇帝の正妻になったのもヒュッレムが最初です。
オスマン帝国では一人の女性が息子を二人以上生むことは許されませんでした。男子を生んだ女性は皇帝から遠ざけられるのが習慣でした。
ところがスレイマン1世はヒュッレムが男子を生んだあともそばに置き続けました。皇子が地方の知事として赴任するときは母親も同行するのが慣例でした。でもヒュッレムは同行せず、常にスレイマン1世の近くにいました。
ヒュッレムの子供たち
メフメト皇子(Şehzade Mehmed)
生没年:1521~1543年
埋葬地:イスタンブル・シェフザーデモスク
スレイマンとヒュッレムが最も期待した皇子と言われます。本人も有能だったといわれますが病気で死亡。
ミフリマーフ皇女(Mihrimah Sultan)
名前の意味は「太陽と月」
生没年:1522~1578年
埋葬地:イスタンブル・スレイマニエモスク
スレイマンが溺愛した娘。親子ほど年の離れた宰相(後に大宰相)のリュステムと結婚。
アブドラ皇子(Şehzade Abdullah)?
生没年:1522~1524年
母親がよくわかっていない皇子。生まれてまもなく死亡。誕生年がミフリマーフと同年のため。ヒュッレムの子だった場合はミフリマーフと双子になります。他の妃の可能性が高いです。
セリム皇子(Sehzade Selim)
生没年: 1524~1574年
埋葬地:イスタンブル・アヤソフィア
11代皇帝セリム2世
メフメトの死後、スレイマンが後継者として期待したのがセリム。というより兵士に人気のあったムスタファ、血気盛んなバヤジトに比べ目立たないセリムは結果的に残った。という感じ。スレイマンの死後、11代皇帝セリム2世になります。あだ名は「酒飲みセリム」。
バヤジト皇子(Şehzade Bayezid)
生没年:1525 あるいは 1526~1561年
埋葬地:シヴァス・アブドゥルヴェーハブ・ガジ・モスク
メフメト亡き後はヒュッレムが一番期待した皇子と言われます。ヒュッレムの死後、兄セリムとの争いが激化。父スレイマン1世から謀反の疑いをかけられイランに亡命しますが、処刑されました。
ジハンギル皇子(Şehzade Cihangir)
生没年:1531~1553年
埋葬地:イスタンブル・シェフザーデモスク
病弱だったので知事として赴任することなく後継者争いににも加わっていません。ムスタファの死後、同じ年に死亡。ムスタファと仲が良かったため、ジハンギルの死はムススタァの死と関係があるのではといわれます。
マヒデヴラン・スルタン
(Mahidevran Sultan)
名前の意味は「美しい人、美しさが衰えることのない人」
別名:ギュルバハル(Gülbahar)、名前の意味は「春の薔薇」
生年:1500年ごろ。
没年:1581年。
享年:80歳くらい。
埋葬地:ブルサ・ムラディエモスク・ムスタファ廟
出身地は黒海東岸のチェルケス(現在のロシア共和国ソチ)かアルバニア。チェルケス人かアルバニア人だったといわれます。
スレイマンの皇子時代。マニサで知事をしていたころにムスタファを出産。ムスタファは人々から人気のある皇子でしたが、スレイマン1世の命令で処刑されました。ムスタファの処刑後は宮殿を追い出されてブルサで暮らしました。
マヒデヴランの子供たち
ムスタファ皇子(Şehzade Mustafa)
生没年: 1515~1553年
埋葬地:ブルサ・ムラディエモスク・ムスタファ廟
イエニチェリ(常備歩兵軍団)や国民に人気のあった皇子。イラン遠征の最中に謀反の疑いをかけられ殺害されました。ムスタファが謀反を起こした証拠はなく。ヒュッレムやリュステムたちの策略と言われます。
アブドラ皇子(Şehzade Abdullah)?
生没年:1522~1524年
生まれてまもなく死亡j。ヒュッレムの子という説もありますが、ミフリマーフと同じ年のためマヒデヴランの子ではないかという説もあります。
ラズィエ皇女(Raziye Sultan)
別名:タサスラズィエ(TasasızRaziyeSultan)
Tasasızの意味は「のんきな、屈託のない」
生没年:1525~1556年
埋葬地:イスタンブル・ヤフヤ・エフェンディ廟
ハティジェの息子メフメトと結婚。1年で夫が死亡して宮殿に戻り。 ムスタファがマニサに赴任後は母や兄とともにマニサに移動。その後は独身で暮らしました。宗教に熱心でスレイマンの乳兄弟ヤフヤ・エフェンディの養女兼弟子になったと言われます。
ドラマ「オスマン帝国外伝」では未登場。同名の人物がナーゼニンの娘として登場。
ギュルフェム・ハトゥン
(Gülfem Hatun)
名前の意味は「薔薇のような」
本名:不明
生年:不明
没年:1561か62年
出身地:
埋葬地:ユスキュダル・ギュルフェムハトゥンモスク
1511年。スレイマンのハレムに来ました。
スレイマンにとってはフラーネに続いて二人目の側室。ヒデブランが二人目という説もあります、その場合ギュルフェムは3人目。
1521年。ムラト皇子(Şehzade Murad)を出産しましたが、その年に流行した天然痘で亡くしました。
1561か62年に亡くなり生前に自分が建てたモスクに葬られました。
ギュルフェムの子供
ムラト皇子(Şehzade Murad)
生没年:1521年
フラーネ・ハトウン
(Fülane Hatun)
本名:不明
生年:1494年?
没年:1550年
出身地:ギリシア
スレイマンが皇子時代から仕える側女。スレイマンの最初の妃。
スレイマンがマニサで知事をしていたときに娘のファトマヌールを出産しました。
1521年に流行った天然痘で息子のマフムトと娘のファトマヌールを失います。その後はスレイマンの寵愛を受けることはなく、エディルネ宮殿で暮らしました。
オスマン帝国外伝には未登場。
フラーネの子供たち
ファトマヌール皇女(Fatma Nur Sultan)
生没年:1521年
マフムト皇子(Şehzade Mahmúda)
生没年:1512~1521年
他にも妃がいたともいわれますが。記録はありません。
また妃にはなっていない多くの側女もいたようです。
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