モウセはペルシャの将軍であり、バビロニア州の太守でした。
マザイオス、マザウスやムアシズと呼ばれることもあります。
ギリシャとペルシャの戦争がはじまっても目立った活躍はしていませんでしたが、ガウガメラの戦いではマケドニア軍の部隊を壊滅寸前まで追い詰めました。
その後、バビロニアの州都バビロンに戻ったマザイオスはアレクサンドロス3世に降伏します。マザイオスはペルシャで最初に降伏した太守になりました。
マザイオスの史実
名前:マザウス、マザイオス(Mazaeus, Mazday, Mazaios)
地位:バビロニア太守
生年:不明
没年:紀元前328年
父:不明
母:不明
子供:アンティベロス、ルティボレス、ヒュダルネス
日本では弥生時代になります。
ギリシャ軍との戦いが始まる
紀元前334年。ギリシャとペルシャの戦争がはじまったときマザイオスはバビロニア太守でした。イッソスの戦いでペルシャ軍は敗退しましたがこのときは、町を守らなければいけなかったので戦いには参加していないようです。
紀元前334年。ギリシャ軍の進軍を止めるため、ティグリス川流域の町タプサゴに騎兵とともに出撃。このときダレイオス3世から、ギリシャ軍が川を渡らないように止めること、川周辺の町を焼き払うように命令を受けました。施設や物資を敵に利用させなくするために焼いてしまうのです。
マザイオスは命令通り、川周辺の町を焼き払いました。しかしギリシャ軍が川を渡ってしまったので作戦は失敗しました。その後、兵3000を与えられ道路を封鎖するように命令を受けましたが、ギリシャ軍が近づいてくると撤退しました。
ガウガメラの戦い
ペルシャ軍はイッソスの戦いで敗退しましたがその後、軍を立て直すことに成功。ダレイオス3世は自ら大軍を率いてギリシャ軍と戦いました。場所はティグリス川上流で現在のイラン北部だとされます。
この戦いでマザイオスはペルシャ軍の右翼部隊を指揮しました。この戦いではペルシャ軍が苦戦するなかで、マザイオスはパルメニオン将軍率いるマケドニアの左翼部隊を壊滅寸前まで追い詰める善戦をみせます。アレクサンドロス3世はダレイオス3世を追い詰めるつもりでしたが、パルメニオンの救援に来ました。その間にダレイオス3世は逃走。戦場から離れました。
ダレイオス3世が逃げたことを知ったマザイオスも軍を率いて撤退。州都バビロンに戻りました。
戦いのあと、アレクサンドロス3世がバビロンに来ました。彼は降伏すれば領土は保証すると約束しました。ガウガメラの戦いでマザイオスの働きぶりを見たアレクサンドロスは味方にしたほうがよいと考えたのでしょう。
そこでマザイオスは降伏しました。アレクサンドロス3世は無抵抗でバビロンに入り、マザイオスの地位と領土を保証しました。アレクサンドロスもマザイオスを完全に信用したわけではありません、マケドニア人のアポロドルスを守備隊として残しました。徴税人も置いていきました。
いずれにしろマザイオスはペルシャの太守で最初にアレクサンドロスの配下になりました。
紀元前328年。マザイオスは死去。
マザイオスには少なくとも3人の息子がいます。彼らはギリシャのエリート騎兵として働きました。
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