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エブッスード・エフェンディ:オスマン帝国の法律を整備した法学者

オスマン帝国国旗

エブッスード・エフェンディはオスマン帝国の裁判官で法学者。

スレイマン1世はヨーロッパでは壮麗王(マグニフィセント)と呼ばれましたが、オスマン帝国国内では立法王(カーヌニー)と呼ばれました。法律の整備に熱心な皇帝として知られます。スレイマン1世の法律改革を支えたのがエブッスード・エフェンディです。

エブッスード・エフェンディについて紹介します。

目次

エブッスード・エフェンディの史実

名前:エブッスード・エフェンディ(Ebussuud Efendi)
地位:オスマン帝国
生年:1490年
没年:1574年
父:イスキリプリ・シェイク・ムヒディン・ムハンマド・エフェンディ
母:不明
子供:

エブッスードは代々のイスラム教徒。彼の祖先はイラクのイムディエ(アマディヤ)から来たため「エル・イムディ」と呼ばれていました。

彼はトルコ語の他にもアラビア語、ペルシャ語が話せました。他にもクルド語も話せたのではないかともいわれます。

1533年にはイスタンブル、その後はブルサ、1537年にはルメリアで裁判官を勤めました。

現地の法をイスラム法に改めました。

1545年。スレイマン1世はエブッスードを最高裁判所で最高位のシャイフ・アル・イスラムに昇進させました。

スレイマン1世がイスラム法学者を必要とした理由

スレイマン1世の時代はオスマン帝国の領土が広がり様々な人が行き交う国になりました。当時のイスタンブルはヨーロッパ最大の人口を誇る大都市でした。広大な国をまとめるために新しい制度や法律が必要になってきました。そこでスレイマン1世は法令文書の整備に力を入れました。

曽祖父メフメト2世以来、オスマン帝国では皇帝の権力を高めるための仕組みを作ってきました。スレイマン1世はスンニー派イスラム法の立場から問題がない形で制度を作りました。

オスマン帝国では皇帝は世俗のトップであると同時に宗教のトップでした。世俗の権力(国王)と宗教権力(バチカンなどの教会勢力)が別々に存在しているキリスト教国とは違う国のしくみでした。

そのためにも皇帝の権力をイスラム法と矛盾しないようにしなければいけません。その作業の中心になったのがエブッスードです。

オスマン帝国の法律を整備

それまでのイスラム法では、支配者ですら従わなければいけないイスラム法なのに、裁判官は自由に解釈していいことになっていました。しかしそれでは裁判官個人の考えで裁判の結果が変わってしまいます。エブッスードは個人の裁量を制限する仕組みを作りました。皇帝の決める法(カーヌーン)とイスラム法の関係をはっきりさせ、皇帝はイスラム法のもとで統治を行っていることを文書化しました。

さらに法令集の編纂を行い、政府の役人や軍人従うべきルールをはっきりさせ文書化しました。

エブッスードは生前に大量のファトワを書いたことでも知られます。ファトワとは位の高いイスラム法学者(ムフティー)が出すことのできる意見書です。ファトワそのものには強制力はありませんが、イスラム法の立場から正当性・お墨付きを与える役目があったので裁判官はファトワを参考に判決を行いました。現代の裁判だと「判例」のようなものです。とくに位の高いムフティーが出すファトマは政治にも影響を与えます。

ヤズィーディー教徒に対するスレイマン1世やセリム2世の攻撃(殺害)にも正当性を与えています。

当時オスマン帝国で流行りつつあった コーヒー と カラギョズ をイスラム的にも合法と認めました。さらに普及が進みました。カラギョズは現在は無形文化遺産になっているトルコの影絵芝居です。現代トルコの文化にも影響を与えたのでした。

エブッスードはイスラム法学者の最高位シャイフ・アル・イスラムを30年間務めました。スレイマン1世の死後、セリム2世の時代までその地位にあったのです。

1574年。死去しました。享年84歳。

後のオスマン帝国の人々はスレイマンにカーヌニー(立法王)の名を与え、法律が整備された時代と考えました。それにはスレイマンのもと法律整備の中心となって働いたエブッスードの功績が大きかったのです。

 

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