カラ・アフメト・パシャはオスマン帝国の軍人で大宰相。
州知事やイエニチェリ(常備歩兵軍団)の最高司令官をつとめ、スレイマン1世の妹・ファトマ・スルタンと結婚しました。
カラ(Kara)は「勇者」の意味。数々の戦で手柄をたてた有能な軍人でした。
ムスタファ皇子を支持していたカラ・アフメト・パシャはムスタファの処刑にショックを受けました。
軍の兵士とともにスレイマンに抗議してリュステムを解任させることに成功しましたが、2年後スレイマンによって処刑されてしまいます。
カラ・アーメド・パシャについて紹介します。
カラ・アフメト・パシャの史実
名前:カラ・アフメト( Kara Ahmed)
地位:オスマン帝国大宰相
生年:不明
没年:1555年
父:アブドゥルムエン
母:不明
妻:ファトマ・スルタン
子供:娘2人
アルバニア出身。
父はアブドゥルムエンと言われます。
オスマン帝国の徴用制度デヴシルメでイスタンブールに来ました。国立学校のエンデルンで勉強し帝国の軍人になりました。
1534年。小姓になり。その後、イェニチェリアガ(常備歩兵軍団司令)になりました。
1538年。「バグダッド遠征」に参戦。
1541年にグランド・ヴィジエ・リュトフィ・パシャが解任された後、ルメリ県の知事になりました。
1541年。オーストリア軍に包囲された城を救うための「ハンガリー遠征」に参加しました。
1543年。エステルゴム要塞 とイストルニベオグラード要塞の攻略で手柄を立てました。この功績で第三宰相になりました。
1548年。セリム1世の娘、そしてスレイマン1世の妹のファトマ・スルタンと結婚しました。第二宰相に昇進しました。
その年。サファヴィー朝イランのタフーマースプ弟・アルカス・ミルザ王子がオスマン帝国に亡命。オスマン帝国はサファヴィー朝イランとの戦争を行いました。
第二宰相のカラ・アフメド・パシャがイランの知事に任命されました。
1548年3月29日。イスタンブールを出発。司令官のカラ・アフメド・パシャは、イェニチェリと騎兵隊を率いて正面から移動。シャー・ターマスブは撤退しましたが。残りのイラン軍との戦いで勝利。シャー・ターマスブはカズヴィンに撤退し。オスマン帝国軍は7月27日にタブリーズを占領しました。
その後、カラ・アフメド・パシャはジョージアに遠征。トゥルトム、アクチャカレ(トルコ東部のシャンルウルファ県)を占領、シルバンシャー州(現在はアゼルバイジャン)をオスマン帝国の領土にしました。
1551年。ソコル・メフメト・パシャの軍がテメスバル城占領を失敗。
1552年。カラ・アフメド・パシャが遠征軍の司令に任命されテメスバル城を包囲。28日間の戦いの後、城を降伏させました。
1549年12月。作戦を終えたカラ・アフメト・パシャは軍とともにイスタンブルに戻りました。
1552年。スレイマン1世の命令でハンガリーに遠征しました。ティミショアラ、ヴェスプレーム、ソルノク、リポヴァを攻略しました。
しかし、エゲル包囲戦でイシュトヴァーン・ドボーに破れました。
ムスタファ皇子の処刑に抗議
1553年10月。スレイマン1世がムスタファ皇子を処刑しました。
カラ・アフメト・パシャは、ムスタファが処刑されたのは大宰相リュステム・パシャの仕業だと考えました。ムスタファを支持する兵たちと行動を起こします。スレイマンにリュステムの処分を要求しました。
スレイマン1世はリュステム・パシャを解任。第二宰相だったカラ・アフメト・パシャを大宰相にしました。
サファビー朝との戦争に従軍。
1555年5月。サファビー朝との間で「アマスィヤの講和条約」が結ばれます。アルメニアとグルジアの西側をオスマン帝国、東側をサファビー朝が支配するという和平条約でした。
ところが
1555年9月にスレイマンの命令で絞殺処刑されました。
ヒュッレムが娘婿のリュステムを再び大宰相にしたいと考えたためといわれます。
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