ペドロ・ゴンザレス・デ・メンドーサはカスティーリャ王国の聖職者です。枢機卿という高い地位につき、大司教にもなりました。政治にも関わり自ら軍を率いることもありました。
ペドロはカスティーリャ国王フアン2世やエンリケ4世に仕えました。
エンリケ4世の娘フアナ王女とイサベルが王位継承を巡って争ったときには教皇と密約をかわしてイサベル側に寝返りました。イサベル1世が女王になった後もイサベルに仕えつづけます。
ペドロ・ゴンザレス・デ・メンドーサについて紹介します。
ペドロ・ゴンザレス・デ・メンドーサの史実
名前:ペドロ・ゴンザレス・デ・メンドーサ(PedroGonzález de Mendoza)
地位:枢機卿、トレド大司教
生年:1428年5月3日
没年:1495年1月11日
父:イニゴ・ロペス・デ・メンドーサ
母:カタリナ・フィゲロア
兄:ディエゴ・フルタド・デ・メンドーサ他
日本では室町時代。日野富子(1440~1496年)とほぼ同じ時代の人です。
おいたち
メンドーサ家はカスティーリャ王室への忠誠心が高い一族でした。父・イニゴはカスティーリャ王家に仕える貴族でした。
5男だったペドロは若い頃は教会の手伝いをしていました。
兄:ディエゴ・フルタド・デ・メンドーサも王の忠実な家臣です。
1442年。14歳のとき。ペドの父は叔父で大司教だったグティエールアルバレス・デ・トレドいるトレドの街に送られました。ペドロは叔父のもとで歴史やラテン語。弁論術など様々な勉強をしました。
1445年に叔父が他界。その後はサラマンカ大学で法学を勉強しました。
1452年 カスティーリャ王フアン2世の宮廷で働き始めます。ペドロは礼拝堂の牧師になります。
1453年。フアン2世の死後。27歳のときカラオラとカルザダの司教になりました。
エンリケ4世の時代
1455年。新しくカスティーリャ王になったエンリケ4世はイスラム教徒の国グラナダを攻めます。ペドロの兄弟も参加しました。
1456年。エンリケ4世の宮廷で働くことになり、ほとんど時間を宮廷で過ごしました。
1458年。父が他界。兄ディエゴとともにメンドーサを支える立場になります。
カスティーリャ国内ではエンリケ4世とカスティーリャの貴族が争いはじめました。ペドロはエンリケ4世の味方になって王を支えました。ペドロは聖職者であると同時に政治家でもあり軍人でもありました。貴族との戦いではペドロが軍を率いて戦うこともありました。
1467年。オルメドの戦いに参戦。エンリケ4世の指揮のもとで戦い腕を負傷しました。
その後まもなくポルトガル王室の娘と結婚しました。
1468年。シグエンサの司教になりました。
1473年。イサベルの支持者だったロドリゴ・ボルジア(後の教皇アレクサンドル6世)がカスティーリャを訪れました。ロドリゴはペドロと会い密約をかわします。メンドーサ家がイサベルの味方になるかわりに、ペドロの昇進が約束されました。
教皇シクストス4世はペドロを枢機卿に昇進させ、セビリアの大司教に任命しました。カスティーリャ王国の首相も務めました。
ペドロはエンリケ4世の味方でした。しかしエンリケ4世の晩年の1473年には、教皇の圧力があってイサベルの派閥に寝返ります。以後、ペドロはイサベルに仕えて彼女の王位継承を助けます。
イサベル女王の時代
イサベルの即位後。エンリケ4世の娘フアナ王女が王位継承を主張して内乱になりました。ペドロはカスティーリャ軍を指揮してフアナを支持するポルトガル軍と戦います。イサベルを支持するカスティーリャ軍は勝利してフアナを支持するポルトガル王もイサベルが女王だと認めます。
カスティーリャとグラナダとの戦いにも参加して中心的な働きをします。ペドロはスペインからイスラム教徒を追い出すレコンキスタ(再征服)に熱心だったので、自らカトリック教徒の軍を率いて戦いました。多くのイスラム教徒の村を降伏させました。
スペイン国王とカトリック教会の仲介者として活躍します。
グラナダとの戦争がおわり1年後。ペドロは病になります。体調は悪化して、イサベル1世がお見舞いにくるほどでした。しかしその後も回復することはありませんでした。
1495年。病気になって2年後、他界しました。享年68。
彼の死後、財産の多くは慈善事業に寄付されました。
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