バヤジト(バヤズィト、バヤジットともいいます)はオスマン帝国の皇子。
父スレイマン1世はオスマン帝国第10代皇帝。
領土を拡張しオスマン帝国の全盛期を築いた皇帝です。
母ヒュッレムはオスマン帝国史上最も発言力のあった皇后(ハセキスルタン)といわれます。
バヤジトは兄のセリムと王位を争い、敗れて処刑されました。
バヤジト皇子について紹介します。
バヤジト皇子の史実
名前:バヤジト(Bayezid)
地位:オスマン帝国皇子(シェフザーデ:Şehzade)
生年:1525年
没年:1561年
父:スレイマン1世(SüleymanⅠ)
母:ヒュレッム(Hurrult)
妻:不明
子供:
オルハン(Orhan、1543~1561年)
オスマン(Osman、1545~1561年)
アブドラ(Abdullah、1548~1561年)
マフムート(Mahmud、1552~1561年)
メフメト(Mehmed、1559~1561年)
ミフリマーフ(Mihrümah、1547~1602年)
ハティジェ(Hatice、1548~1550年)
アイシェ(Ayşe、1553~1572年)
ハンザーデ(Hanzade、1556年)
おいたち
1522年。皇帝スレイマン1世と愛妾ヒュッレムとの間に生まれました。同母兄にメフメト、セリム。姉にミフリマーフ。弟にジハンギルがいます。異母兄にムスタファがいます。
ヒュレッムにとっては3男、4人目の子供でした。
オスマン帝国には皇子は成人すると地方の知事になって経験を積むという習慣がありました。バヤジトはアナトリア地方(トルコのアジア側の半島)の都市キュタヒヤの知事になりました。
ヒュッレムはセリムよりバヤジトの方が次の王にふさわしいと考えていたようです。
1553年。スレイマン1世がヨーロッパ遠征するため。バヤジトはエディルネ(トルコのヨーロッパ側。トルコとブルガリアの国境付近にある街。当時はオスマン帝国の副首都)の守りを任されました。
この期間にムスタファが処刑になります。
偽ムスタファ事件で信用を失う
1555年。バルカン半島のルテニアで「皇子ムスタファ」を名乗る者が反乱を起こしました。反乱は宰相のソコル・メフメトの働きで鎮圧されました。
ところが、このとき鎮圧を任されたバヤジトの動きが遅かったのでスレイマン1世は「バヤジトが反乱に加担しているのではないか」と疑います。
さらに「バヤジトが偽ムスタファを使って反乱を煽動していてのではないか」という疑惑をかけられてしまいます。
このときはヒュッレムがとりなして処分はありませんでした。
セリム皇子との王位争い
次期皇帝を目指す
ムスタファの死後。バヤジトは次の皇帝になるのは自分だと考えました。バヤジトは自分はセリムよりも優れていると思ってました。自分より劣っている兄が皇帝になるのは許せなかったのです。
バヤジトに仕えていたララ・ムスタファ・パシャも行動を起こすように進言したといいます。
1558年。母ヒュッレムが死亡しました。
それまでバヤジトとセリムの争いはヒュッレムが抑えていたので目立ちませんでした。しかし次の皇帝の座を巡り兄弟間の争いは大きくなります。
異動命令に反抗
ヒュッレムの死後。バヤジトとセリムの対立は激しくなりました。
60代と高齢になったスレイマン1世は息子たちが争わないように首都から遠く放すことにしました。セリムはコンヤにバヤジトはアマスィヤに移動になりました。どちらの都市も首都イスタンブールから遠く離れていますが、距離はほぼ同じです。
スレイマン1世の命令に対してセリムはすぐに従いました。
オスマン帝国の王位継承では皇帝の死後、一番最初にイスタンブールに到着した皇子が圧倒的に有利です。そのため一番近いマニサが「玉座に近い県」といわれました。
バヤジトはイスタンブールから遠いアマスィヤに行くのが嫌でした。そこでバヤジトは「かつて(処刑された)ムスタファが治めていた街に行くのは屈辱だ」など様々な言い訳を考えました。でもスレイマン1世はバヤジトの言い分を認めませんでした。
バヤジトは不満に思いつつも命令に従いました。アマスィヤに行く途中で自分に味方する兵を集めながらアマスィヤに行きました。
挙兵
アマスィヤはかつてムスタファが赴任していた街です。スレイマン1世に不満を持つ人達がいました。
ムスタファには様々な種類の支持者がいました。
バヤジトに合流した人たちで多かったのはスィパーヒーと呼ばれる騎兵団です。スィパーヒーは地方の部族から集められた騎兵でした。トルクメンやクルドの部族たちスレイマン1世に不満を持つ人がいました。イェニチェリたちカプクル(徴用で集められた元キリスト教徒)出身の兵に比べると皇帝への忠誠心は低いです。
皇帝への忠誠心を持ち次世代の皇帝としてムスタファを支持していたイエニチェリと。とにかくスレイマン1世の治世に不満なスィパーヒーでは支持している理由が違います。ムスタファはそういう人たちの暴発を避けていました。
でもバヤジトのもとに集まったのは主にスィパーヒーのような人たち。そしてバヤジトは彼らを使って戦おうとしました。
1559年。スレイマン1世はバヤジトが反乱者なので粛清すると決定。セリムに正規軍の指揮権を与えバヤジトを討たせました。
5月。バヤジトはセリムとソコル・メフメト・パシャの軍と戦いましたが、スレイマン1世の援助があるセリムには勝てません。
敗北したバヤジトはアマスィヤに戻り、皇子オルハン、オスマン、アブドラ、マフムートと僅かな側近たちを連れてサファビー朝イランに亡命しました。一番幼いメフメトと皇子の母、娘たちは残りました。
サファビー帝国に亡命
1559年秋。バヤジトたちはサファヴィー朝の町エレバンに到着。州知事から歓迎をうけました。しばらくしてバヤジトは首都タブリーズに到着。シャー・タフマースブ1世はバヤジトの到着を歓迎。歓迎会をひらいてバヤジトをもてなしました。
しかしオスマン帝国はサファビー朝に圧力をかけます。その圧力に負けてタフマースブ1世はバヤジトを捕らえ投獄しました。
スレイマンとセリムの両方が使者を送りバヤジトをオスマン帝国に引き渡すように要求しました。タフマースブ1世は1年半の間拒否しました。
1561年。オスマン帝国がバヤジトの身柄の引き渡しを金貨40万枚を支払うことで同意。スレイマン1世はバヤジトを捕らえるためサファビー朝に兵を派遣しました。
1561年9月25日。バヤジトは父スレイマン1世が送った兵に引き渡されました。
オスマン帝国の使者はバヤジトたちをひきとるとイラン国内で絞首刑にしました。
バヤジトには5人の息子がいましたが、一緒に亡命した4人の息子はバヤジトと一緒に処刑されました。幼いので残っていたメフメトはブルサに監禁の後、母とともに処刑されています。
4人の娘は助けられオスマン帝国で結婚しました。
バヤジトと皇子たちの墓はトルコ国境に近い街シヴァスにあります。
一番幼い息子の墓はブルサのムスタファ廟に安置されています。
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