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ラヨシュ2世・オスマン帝国のスレイマンに敗れた若きハンガリー国王

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ラヨシュ2世は16世紀のハンガリー王国とブダペストの王。10歳という若さで王になりました。野心がある王だったとはいわれますが、うまく国をまとめることができず。慎重さにかけるところがありました。

領土拡張を続けるオスマン帝国と戦争になり、ハンガリー軍は敗北。ラヨシュ2世は戦死しました。その後、ハンガリーはオスマン帝国に支配されてしまいます。

歴史上のラヨシュ2世はどんな人物だったのか紹介します。

 

ラヨシュ2世とは

名前:ラヨシュ2世(LajosII )
ボヘミア王としての名前:ルドヴィーク・ヤゲロンスキー(Ludvík Jagellonský)
地位:ハンガリー王、ボヘミア王
生年:1506年
没年:1526年8月29日
即位年:1516~1526年

父:ウラースロー2世
母:アンヌ・ド・フォワ
妻:マリア・フォン・エスターライヒ(Maria von Österreich)

子供:なし

日本では戦国時代になります。

ラヨシュ2世はトユハンガリーとボヘミアの国王を兼務するヤギェウォ朝の王です。

1516年。父親のウラースロー2世が死去したためわずか10歳でハンガリー王とボヘミア王に即位しました。

10歳と若かったため、国内をうまくまとめることができませんでした。

オスマン帝国との戦争

1520年にオスマン帝国でスレイマン1世が即位しました。スレイマン1世はハンガリーに使者を送ってきました。ハンガリーがオスマン帝国に毎年使者を送るように求めました。ラヨシュ2世はスレイマンの要求を拒否。オスマン大使の首をはねて首をスレイマンに送りました。

ラヨシュ2世は神聖ローマ帝国など他のキリスト教国が助けてくれると信じていたようです。

しかし当時のハンガリーは災難続きで財政難の時代。国境の警備も手薄になっていました。

1521年。オスマン帝国はハンガリーに宣戦布告。

ハンガリーに所属していたベオグラードに攻めてきました。

ラヨシュ2世は他のキリスト教国の援助を集めるのに失敗。ベオグラードはオスマン帝国に占領されました。

その後、オスマン帝国はロードス島との戦いを優先させたため、ハンガリーとの戦いは後回しになりました。ロードス島陥落後、スレイマン1世は次の目標をハンガリーの首都ブダに定めました。

モハーチの戦い

1526年6月。オスマン帝国のスレイマン1世率いるオスマン軍6万の兵が攻めてきました。

ラヨシュ2世はハンガリー軍3万を率いて迎え撃ちました。

トランシルヴェニア、ハプスブルグ家、ボヘミアなどの援軍も来ました。援軍を合わせると5万の兵力になりました。移動中の兵もいて援軍はさらに増える予定でした。

ところがラヨシュ2世は全ての援軍の到着を待たずに戦いを始めてしまいます。5万のハンガリー連合軍は騎士団を中心にして突撃しました。

オスマン帝国軍はこのときの戦いに参加していたのは5~6万といわれます。数ではほぼ互角でした。しかしハンガリーの軍隊は装備も戦い方も古く時代遅れになりつつありました。最新の銃や大砲を装備したオスマン軍に対して、中世と同じ騎士団で戦いを挑みました。

ところがオスマン軍は大砲300門を持っていました。しかも寄せ集めではなくまとまった戦いをします。オスマン軍はハンガリー騎士団をうまくおびき出して大砲で攻撃しました。

オスマン軍の猛攻をうけたラヨシュ2世は撤退しようとします。馬に乗って川を渡ろうとしたところ、川に落ちました。鎧が重くて浮き上がることができず、溺れ死んでしまいました。

この戦いでは側近の貴族も戦死。ハンガリー軍はオスマン軍に大敗しました。

9月。オスマン軍はハンガリーの首都ブダ(現在のブダペスト)を占領しました。

この戦いの後、王を失ったハンガリーは分裂。オスマン軍が占領した地域はオスマン帝国のものとなり。残った地域はハプスブルグ家が治める地域、ハンガリー貴族から選ばれたサポヤイ・ヤーノシュが治めるハンガリー王国に分裂しました。

 

オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜でもラヨシュ2世は登場します。しかしラヨシュ2世を演じたカディル・チェルミックはシーズン1の時点で34歳。太っているので実年齢よりも老けて見えます。ドラマでも遊んでばかりいたりスレイマンの暗殺を計画したりと、かなり脚色されています。

でも、使者の首をはねて送りつけるところは事実ですし、オスマン帝国を甘くみていたり。うまく史実を再現しているところもあります。

目次

まとめ

ラヨシュ2世は10歳でハンガリー王に即位し、オスマン帝国との対立を深めました。

神聖ローマ帝国などの支援を期待しましたが、モハーチの戦いでオスマン軍に大敗し戦死。ハンガリーは分裂し、オスマン帝国の支配下に置かれることとなりました。

若くして王位に就いたラヨシュ2世は、経験不足と周囲の状況から、国をまとめることができず、悲劇的な最期を迎えたと言えるでしょう。

 

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