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師父オメル・エフェンディ|オスマン2世の師父の最期

オスマン帝国国旗

オメル・エフェンディは16~17世紀のオスマン帝国の政治家。

第16代皇帝 オスマン2世の師父(教育係)を務めました。

オスマン2世の政治に影響力をもっていたといわれます。

しかしオスマン2世は兵士やイスラム長老たちと対立。反乱が起きてしまいます。

兵士たちの反乱によってオメルは捉えられ、処刑されました。

師父オメルとはどのような人物だったのか紹介します。

 

目次

ララ・ホカ・オメル・エフェンディの史実

名前:ララ・ホカ・オメル・エフェンディ(Lala Hoca Ömer Efendi)
生年:不明
没年:1622年。

オメルの生年は不明。

オメルについての詳しい情報はありません。

第14代皇帝 アフメト1世の皇子オスマンの家庭教師(ララ)をしていました。

メフメト皇子の教育も担当していたといわれます。

皇子の師父(ララ)

オスマン帝国では皇子には教育係がいました。教育係のことをララ(Lala)といいます。「師父」と訳すこともあります。ララの役目は将来の統治者として必要な教育をすることです。

ララ(師父)は皇帝の使用人の立場。教育を受ける皇子よりは上の立場にあります。見識の深い年長者から選ばれ。皇子の先生になるので皇子たちからは尊敬されていました。

皇子が地方に赴任すると一緒についていって助言をしました。皇子が皇帝になると高官になることもあります。

オスマン即位後のオメル

1618年2月26日。オスマン2世が即位しました。

しかしオスマン2世はまだ13歳。オスマンの決定にはオメルの助言が影響を与えたといわれます。

オスマン2世は伯父のムスタファ1世の即位を支持したソフ・メフメト・パシャとイスラム長老エサド・エフェンディには腹を立てていました。そこでオスマン2世は即位後にソフ・メフメト・パシャを解任。

エサド・エフェンディの権限を宗教的なものだけに制限。ウラマー(高位の法学者)としての権限はオメルに与えました。このときのオスマン2世の決定にはオメルと宦官長のムスタファ・アガの影響があったと言われます。

しかし大宰相になったアリ・パシャもオスマン2世に影響を与えました。ポーランド遠征を提案したのも大宰相アリ・パシャです。大宰相アリ・パシャは自分で政治を行いたいと考えているオスマン2世に働きかけ、オメルと距離をとるように仕向けたと言われます。

かつてオメルがメフメト皇子を次の皇帝に推薦したという噂もありますが、定かではありません。理由はわかりませんが、一時期、オスマン2世は大宰相アリ・パシャを信頼。オメルは遠ざけられていたことがありました。

しかし大宰相アリ・パシャの死後。オメルは再びオスマン2世の信頼を得ました。

オスマン2世は1621年に誕生した皇子にオメルの名前を与えています。

兵士たちの反乱で死亡

オスマン2世はイェニチェリ(常備歩兵団)やイスラム長老たちと対立していきますが、オメルはオスマン2世の考えを支持したと言います。

1622年。兵士たちが反乱を起こしました。このとき兵士たちはオスマン2世をそそのかしたとしてオメルや他の支持者の処刑を要求しました。しかしオスマン2世は兵士たちの要求を拒否。

すると兵士たちは宮殿に突入。オスマン2世は捉えられました。このときオメルも捉えられ処刑されました。

 

新オスマン帝国外伝キョセムのオメル

新オスマン帝国外伝・影の女帝キョセム・シーズン1
2015年、トルコ 演:シャヒン・セクマン(Şahin Sekman)

皇帝妃キョセムがオスマン皇子とメフメト皇子の教育係に任命した人物。

後にジェンネト・カルファと結婚。ジェンネトを使ってハレムの情報を聞き出したりしていました。

実は太皇太后サフィエと繋がっています。でもオメルはオスマンを皇帝にすることだけを考えているので、サフィエがオスマン以外の者を皇子にしようとしていると知ると距離をおいたこともあります。

オスマンの統治時代には大きな影響力を持っています。オスマンとキョセムの仲を引き裂こうとしています。

 

 

 

 

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